自分を書く文章 ぶんぶん通信「みや」ログ 

執筆者「みや」の想いや考えを共有して、共感出来る人に繋がりたい。その中で、視点や考え方が読んでくださった方に役立てばと思います。

雨の日はいつもと違う世界

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雨の日は
自分を見つめ直そう
 
 
 
 
雨と言えばマイナス、ネガティブなイメージが結構あるけれど、休みの日などで考えるとむしろいい日とも言える。
 
 
今日はそんな雨の日、天気について考えて見た。
 
 
風がビュービューガタガタ!とか
カミナリがゴロロー!とかは不安になるけれど、ただの雨は個人的に好き。
 
 
というか、雨の日ってなんか落ち着く。
いつもより少しだけ冷静だったり、物事を俯瞰して見れることがある。
 
 
外の世界が少し静かになるというか、澄んでいるというか。
晴れの時とは空気から音から匂いまで、何から何まで確実に違う。
単純に気温が低いというのもあるかもしれない。
 
 
 
晴れの日と雨の日が違うなんて当たり前のことかもしれないけれど、当たり前のことだからこそ改めて考えることを忘れてしまっていた。
 
 
そこにはただ雨が降っている、降っていないというだけじゃない。きっとそんな物質的なことだけじゃなくて、単なる気象的なことじゃなくて、もっと肌感覚と言えば良いのか、感じ取るものが誰しもあって、けど、多くの人はそれをいちいち感じようとはしていない。
 
 
そんなことを今書いている僕も別段、考えたことはなかった。
けど、今こうして考えたり感じてみると雨の日というはいつもとは少し違う自分であることに気づいた。
 
 
ここまで書いていて、今更の様にふと思い出す。
 
 
そう言えば今度「天気の子」という映画がやる。

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言わずと知れた「新海誠監督」の最新作。
 
 
きっと待ち望んでいる人も多いのだろう。
おそらくだけど、というか今この記事を書いているからなのかもしれないけれど、この映画をきっかけに『雨』というものの概念や見方というものがガラリと変わるかもしれない。
 
 
正確には「天気」の、かもしれない。
 
 
そんな予感がする。
 
 
当たり前の様に生活に、人生に登場してくる『雨』という存在。
 
 
昔だったら農作物に恵みを与えてくれる感謝の『雨』。
現代では気象の一つ。
 
 
きっと今でも一部の人は昔と変わらぬ感覚で『雨』を感じている人も居るのだろう。
 
 
改めて『雨』を感じたり、考えることを忘れてしまった今だから描かれる作品なのかもしれない。
 
 
もしくは「天気」を通して人の心理や行動、思考、あらゆる面での表現がなされているのかもしれない。
 
 
とか、いつ間にか映画について書いてしまっているけれど、これもきっと今日が雨のせい(笑)
 

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雨の日のエピソードで、雨が降ってなかったら感じることのなかったであろう話がある。

 

原付である仕事に向かった時のことなのだけど、それが片道三時間近く掛かる道のり(埼玉〜江ノ島間)で、その帰りに雨が降った。たまたま用意していた雨具がまさかの使い古しのダメなやつで、全くもって無意味に等しい中それなりの雨の中ひたすら走ったのだけど、この時の僕の頭の中にあったのはたった一つのことだけだった。

 

 

 

風呂に入りたい!

 

 

寒かった、とにかく寒かったのだ。

六月とは言え、夜で雨で濡れて、風を受け続けると流石に寒くて仕方なくて、お風呂以外のことは考えられなかった。

 

 

そんな果てに家に辿り着いてお風呂に入れた時の、全身の血液が動き出す様なあの感覚は雨を受け続けいなかったら味わうことの出来ないことだった。

 

生きている心地を感じた。

 

 

降られている間はただただ嫌だった雨も、その瞬間からは雨で良かったと思えた。

けどまぁ、また同じことをあえて選択はしたくないけれど(笑)

 

 

雨の日はいつもと違う世界で違う自分。

そんな言われたら当たり前の様なことも大事にして生きたい。

 

 

「みや」

怖さを感じることは自分にとっての本当がある。

先日始めたばかりのツイッターにDM(ダイレクトメール)なるものが届き、ツイッターをフォローして貰えればブログを読んでくれている人とも交流しやすいのかな?と思ったので、交流してみたいという方は良ければ是非フォローしてください。

はてなブログ単体は交流しにくいと感じている「みや」です。

 

 

今回の記事は先日友人が最近始めたブログの中で、今の僕にドンピシャな記事を書いていたので、思わずそれについて書きたくなりました。

 

そのブログがこちら。

ameblo.jp

 

彼も凄く面白いというか、自分を生きるのに真っ直ぐでかなり自分というものを曝け出しているので是非知って貰いたい人。

尊敬している友人の一人です。

 

 

この彼がこの記事で書いている一文がこちら

 

 

※この記事に書くことは、

 

"直感を大切にする"

 

"タイミングを待つ"

 

"心の声を大切に"

 

"ワクワクに従う"

 

を逃げる言い訳に使ってた俺自身の話。


それらを都合のいいように使ってた自分が悪かったって話。

 

"直感を大切にする"という生き方を否定するものではない。

 

何なら今も俺、直感とかタイミングを待つとかも大切にしてるよ。

 

これからもそういう生き方の遊びをやっていきたいと思っているよ。

 

 

いやまさに!

 

 

まさにこれを常にやり続けていたのが僕!

そもそも、彼とはこうした価値観や考え方で繋がっている部分があったのだけど、この考え方って凄く素敵なことで、生きる上ではとても大切なことだと思っている。

 

不安や焦りから起こる行動はしない、とかふとした瞬間に忘れてしまいがちだったりするけど、そこから生まれることって消極的だったり、苦しみだったりして、ワクワクとか自分を生きるとは真逆な方向のエネルギーでの一歩というのがこの世の中には確かにあって。

 

そうした選択をしないということを彼は僕以上にストイックに実践していた。

※ここから先はいくつか彼の言葉を引用しながら、自分の言葉を書き足したりしたりしてます。

 

 

しかし、それゆえにそれに縛られたりすることもあったりする。

 

 

やりたいと思えること、

ワクワクするものへの衝動、

タイミング、直感を待つ。

 

 

それらから生まれるものや、出会えるもの、見えてくる世界というのは確かにあって。

 

 

けどそうしていく中で、いざ

 

 

タイミングがきた!

 

今だ!

 

今この瞬間!その時がきた!

 

やりたい!って思った!

 

という、ここぞという時に

 

 

勇気が出せない。
肝心の一歩が踏み出せない。



知らない間に臆病になってたりするということがある。
そうするとそうしたアンテナや感性が鈍ったりして

 

ワクワクすっぞ!!!

 

とか

 

楽しみだ!!!

 

ってならない。

 

 

それより先に恐怖や不安なんかが出てきたりする。

その結果、「自分の中でタイミングじゃないんだな」ってことにして、行動しない。

 

 

ワクワクしないから、


楽しい!ってならないから、


何なら恐怖心が大きくて嫌な気分になるから、


って勇気を出さない。


 

この様に言い訳にしてしまってた。

 

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直感で動く、とかワクワクに従ってという考え方が出てきたのはもう何年も前で、それに従って現実を変えて行っている人というのはそう言った怖さを感じても、そこに飛び込んでいる。

 

 

彼のブログではワクワクしないことこそやりたいことって書いているけど、今この記事を書いている僕はこう思った。

 

 

怖さを感じることこそやりたいことだって。

(よく読んだら彼も最後の方に書いていた)

 

思ったんです。

本当にやりたいことって勇気がいることだったり、怖いものなんだって。

自分の中にある本当がなければ、その怖さって出てこないと思う。

 

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だって、仮に「明日からジャニーズのバックで踊ってくれ」とか言われても、いやいや無理ですって言う言葉が出てきても恐怖は出てこない。

 

 

それは僕の中に「ジャニーズとしてステージで踊る」というのが無いからであって、仮にそれを目指している人、その途中の人だったら怖いと思う、凄く怖いと思う。

中にはチャンスだって喜べる人もいるかもしれないけれど、それはごく少数であると思う。

 

 

あるいは僕にとっては現実味がないから怖さを感じないのかもしれない。

けど、少しでも現実味があること、興味だったり好きだったりするものだったら、そこに対しての自分の実力とか現在地をわかっているが故に怖さが出てくる。

 

 

やりたいことだからこそ、怖さが出る。

 

 

もう1つ例えが思い付いたので、例えてみます。

有名なパティシエの先生みたいな人に、自分が作ったお菓子を食べて貰うってなったときに、僕だったら「いやいや、僕のなんか食べても仕方ないでしょ」って客観的に思うことはあるかもしれないけれど、

 

これがパティシエを目指している人だったら「不味いとか才能無いとか言われたらどうしよう」とかって不安や恐怖が出てくると思う。

 

僕は仮に「美味しくないね」と言われたら多少ショックは受けるだろうけれど、「でしょうね」とも思って終わると思う。

 

 

なので、怖さというのはそれだけ自分の中にある本当の部分と直結してることなんだと今日書いていて思いました。

 

 

そうなると先日の編集の仕事はかなり怖さを感じていたので、僕の中の本当の1つだったのかもしれません。

 

受からなかったんですけどね。

 

 

この怖さって感情は凄く奥が深い気がする。

怖いことこそに自分の真髄が隠されている。

もちろん、一つの例だけれど。

 

 

「みや」

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わかってる、頭ではわかってるんだよ。でも出来ないんだよね。

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難ありて すべきことを
知りゆくも 実に動けぬな
 
 
今回ちょっと趣向を変えての画像言葉。
雰囲気が変わるし、日本語って本当に面白かろう。
 

今回の記事のまとめ。さっと読みたい人はこちらを見れば大筋は読めます。 

 
困難苦難があって、どうすればいいかは本当はわかっていて、でも実際に動くことが出来ないよって話。
 
 
読んでくれてる人にも一度くらいは見に覚えがあるかもしれない。
 
 
頭ではわかっていても、心や身体が動かないってことって生きていると思いの外あったりする。
 
 
 
「こうした方がいいんだろうな」
「今はこうすべきなんだろうな」
「これが必要なんだろうな」
「これは止めた方がいいんだろうな」
 
 
と思った時に何か言い訳して、結局やらないアレですよアレ。
 
「でも……」って出てくるやつ。
 
 
例えば
 
  • 身体がしんどいから、とか
  • また今度やればいいや、とか
  • 今は忙しいからしょうがない、とか
 
 
 
大変だからと、後回しにしてしまうこの考えは誰しもが持ってたりするもので、だからこそ誰もが改める必要がある部分とも言える。
 
とはいえ、その時の素直な気持ちや感情というのも大事にした方がいい
 
 
以下は以前この画像言葉を書いて発信していた時の一文。
 
 
大変なことから逃げていては、現状は何一つ好転しません。
それで現状に不満を言っている人が居たらどう思いますか?
「この人何もせずに、何を言っているんだろう?」
と思われてしまっても無理はないかと思います。
大きく変わると書いて大変と書きます。変わる為には大変なことも必要なんです。
 
 
 
よく聞くやつ。
間違ってはないけれど、でもそうした考えや意識下で組み上がったのが今の世の中なわけで、この考え方は最早古いと言える。
 
 
というか最後の方の言葉は僕の言葉ではなく、誰かから聞いた他人の言葉にしか過ぎないと、この時は気付いていなかった。
 
 
僕がこの「画像言葉」という表現でやることの1つはこうした過去の自分との対話であったりすると、今こうして書いていて思った。
 
 
 
こうした言葉が一体誰の為になって、誰が救われるのか?
 
 
なので、過去の自分の鼻っ柱を折る気持ちで、この後も言葉を書き連ねようと思う次第だ。どうか読んでくれてる人にはお付き合い願いたい。そして、その様を見て自分の中に通じるものがあったら参考にでもして貰えたらと思う。
 
 
ああ、堅苦しい重苦しい。
なんで文にするとこうなってしまうのか。
ここからは意識してくだけた雰囲気で書くことにしよう。
 
日本人  男性 一名 1人 一人 ぽっちゃり 肥満 ダイエット 痩せる 痩せたい 目標 ビフォー アフター 太っている 太り気味 メタボ メタボリックシンドローム 脂肪 体系 ボディー 白バック 白背景 ジャージ 運動 ポーズ ポージング ふざける おちゃらける やる気がない 遊ぶ 全身 カンフー mdjm017
「みや」本人ではない

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さて、前に書いた時は地元の友人が「やりたいことがいっぱいある」ということは会う度に言ってるくせに、その1つ1つに僕が「こうして見たらどうだろう?」とか「こういうのやって見たら?」と言っても、何ひとつ行動に起さないことから、この画像言葉を書いたのを覚えているんだけど、
 
 
まぁ、今思えばその時の友人がそこまで本気じゃなかったか、僕の提案が彼に響くような素敵ものでなかったか、単にタイミングではなかっただけなんだと分かる。
 
 
僕のエゴだよね、という見方もできる。
この時の僕はそうした友人が許せんかったのだ。
 
 
 
今では多少その頃よりは大人になった僕が、ここで言いたいのはそうしてやらないこと、やれないことを定しちゃってもいいんじゃないか?ってこと。
 
 
よく育児を頑張るお母さんがある日突然「いいお母さんを目指すのやーめよ」って悟りを開く時がある。
 
 

fkokoro.hateblo.jp

 

 

今では色んな人がこうしたブログを書いていたり、それに共感したりしてる時代。

高学歴の人が偉いとか、幸せになれるとかっていう時代が終わったように出来ないことを出来ないと言える人幸せを感じる時代になってる。

 

 

けれど、じゃあこの投稿読んだ人や、こうした良いお母さん辞める宣言した人の記事を読んだ人が「よし、じゃあ私も!」「ワシも良い上司辞めるわい!」って思ってもやれないことってあると思う。

 

 

というか、それくらい単純だったら世の中もっと気楽な人が増えていてもおかしくないだろう。

 

 

世の中にどれだけ自己啓発本やこうしたマインドやきっかけになる本やブログが蔓延しているというのか。

 

何故、一向に本などの情報をそのまま反映、実践出来る人が増えないのか。

 

 

身の蓋もないことを言うと単にタイミングではないだけか、それを実践して今を変える労力よりも多少諦めて、我慢して生きている方が楽なだけのどちらかで大体片付けられてしまう。

 

 

こう言う情報に触れた時点で、それを実行するかしないかの選択を無意識にも行っているのが人間なんだと思う。

 

 

けど、だからと言って実行できてないと責める必要は全くなくて「今はそのタイミングではないんだな」って思うくらいが丁度いい。

 

 

本当に自分に必要なことなら、勝手にスイッチ入るし、そうでないならいつまでもスイッチは入らないようになっている。

 

 

出来ない自分を責めていた方が気が楽って人は責めてたらいいし、なんかモヤモヤするならちょっと踏み込んで見ればいいんだと思う。

 

 

・編集者「みや」の一言メモ

  1. 頭ではわかっていることでも、実際出来ないことは誰だってあるよ。
  2. 出来ないことを出来ないって肯定しちゃってもいいんだよ
  3. これを読んだからと言って、すぐに肯定的に思えなくたっていい。
  4. 他の情報を見て気になるけどやらない場合はタイミングじゃなかっただけ。
  5. スイッチ入る時は勝手に入る。
  6. 出来ない自分を責めたいなら気が済むだけ責めればいいよ 。

 

 

周りの環境や自分の状態でも大きく変わると思うので、苦しいと感じるなら現状に対して心が抗議してるんだと思うので、今回の記事のことや、他の気になったことをしてみるといい。

 

 

「みや」

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ニートってことに白旗を上げて見る 

昼寝をしてしまい、短時間なのに「フリーザ様と誰かと地下に広がる下水路みたいな迷路を脱出するという」夢と「中学時代のクラスメイトがちゃんと大人の女性として出てきて誘惑してくる」という2つの夢を見るという夢診断では判断出来ないだろう夢を見た「みや」です。

 

 

このブログを書き始めてから、ついぞこの言葉で自分を表現したくなかったんだけど、僕って紛れもなくニートだよなぁ。

 

 

いやね、今だって先日面接に履歴書忘れた会社の結果待ちとかしてるから働く意思は全然あるんだけど、六月に単発のバイトしただけで、今何も収益なくて実家に住まわせて貰ってるとか立派なニートだ。

 

 

www.tatamiyatanuki.com

 

 

ちなみに立派なニートで検索したら、

「立派なニート」の画像検索結果

 

って出てきたんだけど、これで行くと働く意欲のあるフリーターとなるという、今回の記事の破綻を感じさせるけど、あくまで一例なのでこのまま続けようと思う。

 

 

大事なのはニートという言葉から逃げていたということを、きちんと認識したという部分なのだ。

 

面接に受かればニートではなくなる訳なんだけど、それまで自分のことをニートと表現するのを何故か避けていた。

 

 

このブログでも当初はニートのブログとかタイトルに付けようかとも思ったのだけど、

 

「いやいや、別に働きたくない訳じゃないし、むしろ働きたいくらいだし」

 

 

というのもあって、ニート状態なんて割と早く終わるからそこを押し出したら色々嘘になると思った。

 

そんな感じで、働く意欲という仮面を被ったニートという事実を認めないまま今日まできてしまっていた。

 

 

実に三ヶ月。

 

正直ニートに対して変な偏見は持ってないつもりだし、なんなら様々な要因で働けない、働いていない状態のツラさみたいなものの理解もしているくらいだ。

 

二十代前半では家賃も入れるスーパーニートと友達に豪語してたくらいだから、今更ニートであることに対して後ろめたさや恥ずかしさなんてものはない

 

 

…………と思ってた。

 

 

けどね、ほらタイトルにも書いてるけど、認めたくないこととして扱っていた訳なのですよ、ニートという肩書き的な事実を。

 

 

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なんならブロガーの端くれですけど、的な雰囲気も醸し出していたくらい。

いや、これも1つの事実だけど、収益にはまだ繋がっている訳ではないからブログで稼いでるなんてとても言えないレベルである。

 

 

ブログ書いて、ブログのこと調べて、寝て、ゲームして、漫画アプリ読んで、ブログ見て、ゲームして、アニメみて、ブログ調べて、飯食って寝る。

たまに闇雲に走り出したりして発散することもある。

 

 

みたいな生活サイクル。

メリハリがなくて死にそうだけど、面接結果を持つという面目躍如を後ろ盾に日々をこんな形で過ごしてる。

 

 

将来もし、結婚出来て子供が同じ感じになったとしても、両親のように何も言わずに見届けてやりたいという精神的大人な部分も育ってたりする側面も感じてる。キットムダジャナイ。

 

 

他のニートさんが実際はどうしてるかはしらないけど、僕はこれではつまらなくなっていて、二十代前半のニート時期の時は何も感じなかったけど、アラサーに足突っ込むと色々出てくるよね。

 

まぁ、そんな感じでニートを認めるのもこのタイミングでしかないと思ったのと、ぶっちゃけニートという存在とか割と認めてる部分とどうでもいいと思うのが本当のところで、要はニートでも面白いかどうかが大事。

 

今の世の中魅力的なニートというのも存在していて……というところまで書いて、

 

 

「ん?そういやニートのこと何も知らないぞ」

 

 

勢いで文を書いていたことに気づき、検索して見る。

 

なんとなく情報としてニートのブログとか、ニートを突き詰めたら本を出していたとかって話は知っていたけど、実際知らないじゃないかと。

 

 

そしたら『pha』という有名ニートさんが出てきた。

 

このブログについて - phaの日記

 

本をいくつも出してたりしてる、見た目普通な感じのおっちゃんだった。

 

 

ざっといくつかのブログを読んで見たけれど、全盛期は過ぎているのかそもそも僕のニート力が脆弱だからなのか、あまり刺さることは書いてなくて、でも色んな人に支持されているからエッセイ書けてたり、本を出せているんだろうな、と思った。

 

 

この人がニートの極地の1つであるとするならば、僕はこの路線である必要は特にないと感じる。

 

 

まぁ、ニートであることは認めるけど、ニートで居たいという訳ではない辺り、エセニートではないかという所に落ち着く訳だ。

 

・ここから脱線するよ

 

わざわざ見出しを使ってのお知らせ。

ニートについてはもう認めたので、ここからは番外編。

 

 

ニートの続きで言えば、現状ブログの存在でなんとか生きる気力は養われているけど、そのブログが原因で落ち込んだりすることもある。

 

 

そんで、昨日のブログで「自分を書く文章ってどういうことだ?」的なことを書いて、最終的に

 

「読んでもらいたいんだけど、別にあんた達の為には書かないんだからね!」

 

 

というツンデレ自己中心的執筆を宣言した訳だけど、今思えばタイトルがカッコつけてる。

 

 

www.tatamiyatanuki.com

 

自己中執筆宣言とかでいい気がする。

どっちの方が読んで貰えるのか?

 

真面目な感じの人なら前者で、ちょっとおかしな人が好物なら後者の方がいいんだろうと思う。

 

僕が求めているのは後者で、僕も後者なのに、こんな感じでいかにも「いい奴風を出してる」っていう時点でまだまだ自分を書ききれてないことがわかってしまう。

 

 

僕って奴はどうやら、すぐそうしてスカしてしまう気質があるらしく、アホみたいな楽しい感じの言葉選びが出来てないことが多い気がする。

 

 

これを書いている時にちらついていたのがタイトル「認めたくないことを認めてみる」という真面目一辺倒のなんの面白みのないタイトルをさっきまで付けていたという。そして変更した。

 

 

誰が読むんだ?

読んでくれたとして、多分真面目な人とか意識高い系とかが間違って暖簾をくぐってきてしまって、そのままUターンでお帰りになる気配しかない。

 

 

基本的に真面目に自分のことを分析や理解しているけど、根は堅苦しいのとか小難しいことは苦手でしかないのに、変なところを常識人っぽく振る舞おうとしているから自分で気持ち悪くなる。

 

 

あと、小説書いていた時の弊害か、文章に含みを持たせようとする癖がなかなか抜けてなくて、今のタイトルがどれだけ面白いかは正直謎だけど、前よりは直接的なことは書けているので良しとする。

 

 

今日はこの辺り。

前までだったら、この辺で「皆さんはどうですか?」とか「皆さんも本当はこうしたいのに、何故か逸らしてしまうことってありますか?」とか書いて締めるけど、そういうのももういいかな。

 

 

「みや」

自分の為の上で誰かの為に書いてるブログ

ブログを始めて誰もが通る「アクセス数の伸び悩み」の道に律儀にきちんと通っている最中の「みや」です。

 

 

その原因とか改善点は多数存在しているとして、現時点で見直しておかないといけないことがあるので、今回はお付き合いしていただければと思います。

 

こういった意識のトライアンドエラーみたいなのは今後もその都度書いていく所存であるます。

 

 

 

 ・書いていることを迷走する

 

なんてことをし始めたりしました。

この辺りは

 

 

www.tatamiyatanuki.com

 

www.tatamiyatanuki.com

 

でも同じようなことで迷走して書いていました。

 

 

でも迷うってことはそれだけこのブログに対して考えている、向き合っているとも言えると思ってますが、それでも悩む時というのは苦しいもので、なんでブログを書いているのかわからなくなったりしました。

 

迷走大好き「みや」です。

 

リンクの2つの記事では自分を発信したいのに、読んでくれる読者の人の存在を意識してしまって、本当の意味で自分というものを出し切れてない、ということを書きました。

 

 

ブログと現実の自分の間に誤差があると。

外面で書いてしまってる部分が多少なりともあったと。

それが嫌なんだと。

 

 

でも今回の迷走はまた少し違うんですよね。 

 

 

・画像言葉 他人の為でなく

 

最近ブログでほとんどメインで書いている「画像言葉」というコンテンツ。

画像に言葉を書き、それから読み取ったメッセージを書くというやつです。

 

 

www.tatamiyatanuki.com

 一番評判が良かったやつです。

 

 

 

実はこれの存在が現れてから少しおかしくなったんです。

 

 

これの内容のほとんどが「自分に向けている言葉」であることが多くて、でも、他の誰かに届いて欲しいという気持ちがある記事です。

 

 

僕の表現の1つとして、僕を知って貰うっていう面で言えば別に全然ブログの主旨から外れてないようにも感じるんですけど、問題はそれを「自分の表現」という意味合いではなくて「他人へのメッセージ」として書いてしまっていたことです。

 

 

ん?

何が悪いの?って思いますよね。

 

 

僕のブログの主旨は徹頭徹尾「自分の発信」です。

その結果、僕に興味持った方と交流したい。アウトプットすることによって、もっと自分を掘り下げたいというのが副産物として目指したいところです。

 

 

けど、そんな中で結果的に読んでくださっている人たちに「気付き」とか「考え方」、「物事の視点」というものが得られるようなことがあれば嬉しいな、と。

 

そういった部分で役に立つことが出来たらいいな、という側面があります。

 

 

そんな訳で、かなり身勝手ながら僕は僕の為だけにブログを書いている限りなく自己中心的なブログを書いていることになります。

 

 

常々書いてますけど、僕は意識の上ではあくまで自分を中心に回さないとこのブログを書いている意味がないと思っています。

 

 

それがたくさんの人たちに読んで貰って、賛同や共感の果てに、結果的に為になるブログになるのならそれはそれでいいのですが、スタートからそれを意識して書いてしまっては、僕の場合本末転倒なのです。

 

 

自分の為にブログを書く、それが僕です。

 

・けど、まだまだ何者でもない自分

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さっきの補足で言うならば、目指すのが有名になることではないと言った感じでしょうか。

 

もちろん、ゆくゆくは有名になれたらいいなとは思ってます。

 

 

けど、まずはこのブログで僕を知って下さった方たちとの交流や、読んで下さった人たちに何か伝わるものが残せたらと言うことの方が先決なんです。

 

 

その最後の副産物として、有名がついてくるならそれに越したことがありませんが、このブログを通して僕が僕と言う人間を理解できて、知って貰って、そして仲間や友達が出来るところまで行けば言うことはなしなのです。

 

 

有名になれば、その分多くの人と繋がるきっかけや、伝えられること、また伝えて貰える可能性が広がって行きます。

 

 

僕はまだまだ何者でもない、ただのブロガーです。

 

 

多くの人が凄い人の言うことに耳を向けます。

凄い人と呼ばれるくらいまで、何かを成し遂げているのだから、そういった人の言うことに説得力や言葉の重みが出てくるのも理解出来ます。

 

だからこそ、今の段階で僕の言葉に響いて下さる方はきっと波長とか合うんだと思います。

 

 

 

けど、僕は今後も伝えていく言葉や言い回しが変わっても、伝えている「本質」は変わらないままで行きたいと思っています。

 

 

僕が何者かと言われるくらいにならないと、なかなか届かない人たちには届けるのは難しい。

最悪、その辺りの人たちに届けるのは諦める時はくるかもしれません。

 

少なくとも、このブログではより自分を意識して発信したいと思ってますので、何卒よろしくお願います。

 

 

・まとめ

そんな感じで色々と脱線してしまった部分もありますけど、画像言葉はより自分に向けて書いて行こうと思います。

 

自分発信特化型ブログと言えばいいのかはわかりませんが、とにかくこのスタイルでどこまでやっていけるのか試してみたいと思います。

 

ここまで読んでくれる人というだけで、何か通じるものがあるのではないかと思いますので、

何か感じたらコメントなどお願いしますね。

 

 

「みや」

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水から学ぶ人間の可能性と本質

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いくらでも〝形〟は変えられる 水もひとも
 
 
 
水に決まった形はないというのは皆さんご存知の方も多いかと思います。
 
 
これって、ひとにも同じことが言えますよね~というお話です。
 
 
 
ひとは物理的にはある程度決まってますけどね(笑)
 
 
さて、ひとの身体のほとんどが水分であるように、ひとと水というのは切っても切れない関係であると言えますよね。
 
 
水は液体、固体、気体と様々な形に変化します。
また、器によってもその形状に自由に形を変えることが出来ます。
 
 
ひともひとという種族の形自体は変えられないですけど、やり方次第でちょっとした形の変化は出来ますよね。
 
っと体型の話をしたいのではなくて、
 
 
ここで言うひとの形というのは生き方や考え方、価値観や世界観のことを言います。またはやり方や実現の仕方と言った手段も言えます。
 
 
生まれてからずっとそのままの人はいませんよね?
姿形はもちろん、考え方や価値観って生きていくうちに色々なものに触れることによっていくらでも変わりますよね。
 
 
今時どれほど言ったことがある方が居るかわかりませんが、小さい頃「お父さんと結婚する!」「お母さんと結婚する!」と言っていた方、今でもその気持ちは変わってませんか?
 
 
両親を好きな気持ちは変わっていないかもしれませんが、その時のままの人は恐らく居ないでしょう。居ましたら連絡ください、お話聞きたいです。
 
 
こんな感じに望もうが望まなかろうが、ひとは変わって生きます。
 
 
けれど、例えば環境だったり、あるいはずっと持っていた価値観によって変わりたくてもなかなか変われないこともあるかと思います。
 
 
 
でも、水を思い出してください。
 
 
周りの環境によってその状態を変えますよね。
液体から固体から気体へ。
 
 
器という物によっても形状を変えますよね。
 
 
 
ということは、ひとも入る環境によって、関わるひとや見るもの触れるものによって、いくらでも形を変えることが出来るということですよね。
 
 
ひとは良くも悪くも勝手に変わっていく生き物だと僕は思います。
 
 
つまり誰しもが自由であり
無限とも言えます。
 
 
ある程度形が定まっているものでも、そこから縦に伸ばそうが横に広げようが凹みを作ろうが『いくらでも形は変えられます』
 
 
望まぬ形や傷が最初からあったりしても、
 
 
元からある形を更に綺麗にするのもいいし、壊して新しく組み立てたりするのもいい
 
 
もっと緩く、もっと柔軟に、もっとシンプルに、もっと簡単に、もっと面白く……
 
 
自分の形変えていける
自分の形変えていける
 
 
 

それがひとだと僕は思います。

 

「みや」

吐いて叶う 愚痴とかも出した方がいいと伝えてくれる画像言葉

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吐いたらいいじゃん
いろいろとね
 
 
 
というのも、今まさに車酔いで吐き気MAXな状態でこれを書いています(笑)
 
 
車は匂いで酔うタイプの「みや」です。
 
 
今日は忙しくて更新出来ていなく、更にこの吐き気で「もう今日はいいかな」なんて弱音と言い訳を吐きかけたんですが、
 
 
こんな最悪な状態でこそ伝えられることがある気がするな、と普段とは違う感性になっているので、そうでないと伝えられない言葉があるかもと思い、画像を探して言葉を拾いました。
 
 
そんな普段とは違う時に出てきた自分のことを書いている記事がこちら
そして、そうまでしてブログで何かを届けたいと思う執念のようなものを、かの有名な岸辺露伴に近しいリアリティの追求なのではと思う僕。
 
 
と思い、なんとか書いています。
まだ吐いてません、大丈夫です。
 
 
前置きはさておき、吐くことって大切なことだと思うんです。
 
 
物理的ではなく、コトバ的にです。
 
 
 
それは弱音だったり、愚痴だったり、世間一般では言わない方がいいとされるマイナスなことです。
 
 
 
常日頃から吐き散らすのは良くありませんが、時々なら出した方がいいと思うんです。
 
 
 
ゴミだって袋に溜めて、出さずに置いておいたら汚いままですよね?
 
 
 
そして、大事なのはプラスなことも吐く……言うということです。
 
 
 
「ありがとう」などの感謝が一番わかりやすいですかね。
 
 
 
そして、この吐くという字ですが、口に十(プラス)と一(マイナス)と書くんですよね。
 
 
 
口からプラスとマイナスを出すことで、吐くというのは成り立っています。
 
 
 
そしてそして、そこからマイナス。一というのを抜くとーー
 
 
 
叶という字になります。
 
 
 
マイナスなことを言わずに、プラスのことばかり言うと叶うになるんです。
 
 
 
それが願いなのか、夢なのか、望みなのかはわかりません。
 
 
 
さて、一般的にというか、僕が見聞きしてる中ではこの叶うという文字になるという話がされている時って
 
 
 
マイナスなことを言わなければプラスだけが残って、叶うという時になるのです
 
 
という聖人向けの言葉みたいなんですけど、いやいや普通に生きていたら愚痴や嫌なことくらい出てくるってものですよね。
 
 
マイナスなこともマイナスとして捉えない。そんな境地の人はいいかもしれませんが、多くの人たちにとって、マイナスなことはマイナスだし、プラスなことはプラスです。
 
 
 
なので、ここで僕がお伝えしたいのが
 
 
 
  • 悪いことだって吐き出しちまえばいいじゃん。
  • 愚痴が悪いとか偏見持たずに。
  • むしろ悪いことを自分の外に出すのだから、溜め込むよりは良いこと。
  • 心の免疫作用みたいなもの。
  • 自分の精神衛生向上に繋がるなら、出すだけ出してスッキリすればいい。
  • けど、吐く相手は選びましょう。

 

です。
ただ、出すなら出すできちんと出し切って、うじうじ引き摺らないのがポイントだと思います。なので出す時は「今日は思い切り愚痴ってスッキリしたる!」ってぐらいしっかり意識するのもいいかもしれません。
 
 
それと、叶う云々抜きにしても良いことも悪いことも溜め込むより、ちゃんと出した方がいいです。
 
 
感謝も思うより、伝えた方がいいですよね?
 
 
ありがとうって思っているなら口にした方が伝わるし、相手も嬉しいです。
普段何気なく一緒に過ごしている仲間や家族に「そういやいつも助かっているよな」というありがとう探しをしてもいいかもしれません。
 

 

きっと人生を豊かにしてくれると思います。

 

 

 

なので、僕も吐き出してみようかな、と。

いつも読んでくれている人、あるいはこの記事を読んでくれている人、ありがとうございます!

読んでくれる人がいるから書けています!

 

 

出来ればもっと多くの方に届けたいと思っています。

もし、読んでくれた方の中で「「みや」の記事はもっと他の人も読んだ方がいいな」と思って下さる方がいらっしゃるのなら!

 

 

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読んでくださっている皆さんのお力を借りないと、まだまだ難しいみたいなのです。

お手数と数秒を頂くことにはなりますが、どうぞよろしくお願いします。

 

 

 

……ふぅ、吐きました。お願いみたいな吐き出し、出来ましたね。

マイナスではないけれど、叶うといいなぁ。

 

あと、吐き気治まりましたー!

 

 

「みや」

自分の思考と範疇を超えられない

先日、いざ面接に向かおうとして電車に乗ったところでまさかの履歴書を忘れたことに気付き、車両内であからさまに慌てた様子で何度も鞄の中を探しまくっていた「みや」です。

 

 

ひとまずすぐにメッセージは飛ばしたんですけど、焦りましたね。

自分でもあり得ない忘れ物だったので、とりあえず向かうだけ向かうしかないと電車に揺られながらも、返信は来ないばかり。

 

 

ふむ、ここはこれ以上慌てたり不安になっても仕方ないな、と気持ちを切り替えるものの、なかなか振り切れることが出来ませんでした。

 

まぁ、どこかで「どうにかなるだろ」と変な自信はあったんですが、メッセージに返信が来ないものだから、その辺りでも揺さぶられて焦りが何度も込み上げてきました。

 

色んな要因による感情が波のように押し寄せては引いて、押し寄せては引いてでした。流石に到着前にはすっかり落ち着くことが出来ましたけどね。

 

結局メッセージは見られてなく、でもどうにか面接は受けられたんですけど、しょうもないミスというのはなるべくしたくないものです。

 

 

まぁ、おかげで履歴書に書いてなかった詳しい話まで出来たので、結果オーライだったにしろ、面接担当の方の人の良さに救われました。

 

向こうも都合で僕を待たせたので、そこからの申し訳なさで上手いこと相殺されたのかもしれません。

 

 

ちなみに受けたのはとある編集プロダクションのアシスタントのバイトだったんですが、求人の記載とは少し違っていた部分があったり、正直やりたいかどうかで言えばやりたくないと思うような内容でした。

 

 

それで、普通ならそんなこと言う必要ないのに僕って奴は隠さず「正直出来るかなって思いますね」とか言っちゃって、あまつさえ面接担当の人が流れで言ってくれた

 

「他の出版社とか、電話で聞いて見たら案外10件に1件くらいは話を聞いてくれるかも」

 

 

と言う言葉を聞いて「なるほど、じゃあ他のところとかもう少し調べたりした方がいいかもですね」とか言っちゃう始末。

 

今面接の最中だっていうのに、他のところを検討することを考えだすとか、

 

 

君採用されたいの?って感じですよね。

 

 

なんかその辺バカになっていて、隠せなくなっていると言うか、良いように言ったら、より素直になっているみたいで、出しちゃうときは結構そのまま出しちゃうようになってきてます。

 

常識人としてはどうなのかと思いますが、自分というのを出すという観点で言えば僕は僕に「よくやった!」と言ってやりたいです。

 

 

いくら面接だろうと、その場を取り繕ってもいわゆる社会が求める「良い子ちゃん」として見られたとして、本質は違うのだから、そう思われて見られても、

 

 

「いえ、人違いです」

 

 

って感じになると思う。

まぁ、それでも時と場合は多少選ぶんですけど、今回はそういうの必要ないってなったみたいです。

 

 

けど、その分ちゃんとその仕事の内容について

 

「結構重要な部分を任せて貰えるというのと、こう言った業界に触れるということで言ったら経験しておいた方がいいと思いました」

 

とも伝えました。

担当さんも「こいつ、わかっておるな」って顔で頷いてました。

 

 

思考だけで考えたら、やりたくない、できるかわからない。という領域だったんですけど、客観的にその仕事が出来るようになったら、他の業種でも役に立つし、経験としては凄くありだなって。

 

 

でも、弱気なこととか正直に出しすぎちゃってるし、落ちるだろーな。

でも、逆にこれで採用してくれたらこれはもう流れだな。

 

 

正直、面接終わった後に色々悩んで。それこそ思考で考えたら出来ればやりたくないと思っているものなので、自分から辞退するかとか考えてたんですけど、

 

 

いやでも経験としては充実しそうだし、何よりそれで考えていたら自分の範疇から超えられないな、って思ったんです。

 

 

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今までだったら、嫌なことは極力しない。

やりたいと思えることだけを選択する。

 

 

という方針が割と強かったので、当然これまで通りだったら、面接開始五分で速攻切り捨てていたと思います。

今でもその視点は大切なことだとも思ってます。

 

が、僕の人生経験値から考えてみるとまだその視点の選択だけで生きて行くのは逆に可能性を狭め兼ねないとも思ったのです。

 

 

なので、委ねてみることにしました。

どう転ぶかわかりませんが、僕の人生に必要なら採用されるだろうし、そうなったらできる限り頑張れば良いし、そうでなかったら別のところを探せば良い。

 

 

きっとそれだけのことなんだと思います。

 

 

さてはて運命は僕に何をさせるのでしょうか、乞うご期待。

 

 

「みや」

貴方が何かをすれば、どんなものも貴方だけの何かに成り得る

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誰のものでもない月も
世界に一つだけの作品になる
 
 
 
今回この画像が伝えてくれているのは、
 
 
どんなものでも作品になる
 
 
ですね。
 
いつも空に変わらず浮かんでいてくれる月は誰のものでもありません。
 
けれど、月というものに様々なアプローチを仕掛けて表現、あるいはカタチにすることで月そのものを自分のものにすることは出来なくとも、自分を通して月というものを自分だけの何かにすることは出来ます。
 
 
世の中は作品で溢れています。ちょっと視点や機転を変えれば、道端に転がる石ころだって作品になり得たりします。
 
 
ただ、それが人の心を動かすものになるかはわかりません。
 
 
 
それでも写真に収めるだけで、
 
何の変哲もない景色が違って見え、
 
作品や思い出になったりするように、
 
 
僕たち人間の中で何かを別のカタチに変えて残すのは意味があり、意義があることなのだと思います。
 
 
また、そう言った力が自然と備わっているのが人間なんだと思います。
 
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詩も声とメロディーに合わせて読めば歌となり、誰かの胸の扉ノックします。
 
 
 
文章だって書き連ねていけば物語となり、語られていきます。
 
 
貴方がブログを書けばそれは貴方の文章であり、見方によれば作品と呼べます。
 
 
写真にしろ、歌にしろ、物語にしろ、全部決まった答えやカタチはありません。
 
 
 
芸術でも同じことが言えますし、料理やスポーツにも言えます。
 
 
ここまで言ってなんですが、何も作品を作ることが全てではありません
 
 
 
作品という枠に捕らわれなくて素晴らしいこともたくさんあります。
 
 
人は誰しも自分だけのものを持っています。
 
 
それがだと思うんです。
 
 
あるいは歩んできた人生とも言えます。
 
 
どんな役もこなせる名俳優も、素晴らしくて華々しい主人公も他人の人生だけは「演じること」は出来ても歩めませんよね。
 
 
自分がしてきたことは、自分だけのものなんだと思います。
他で表すことが出来ないたった1つだけのもの。
 
 
だから、例え自分に何が出来ているかわからないとしても、生きているだけで他の誰かには歩むことの出来ない人生を歩んでいるだけで「貴方だけ」ということが生まれるんだと思います。
 
 
僕も僕だけの人生を歩んでいると思っています。
 
 
「みや」
 
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鈍足だけど自分型

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ぼくらが歩む道は
ひたすら真っ直ぐだけが
近道じゃあない
 
 
 
何かに向かう時、目指す時ににわざわざ遠回りをして行こうと思える人はなかなかいないと思います。
 
 
「プロ野球選手になるぞ!」
 
 
と頑張る人がバットを振るのではなく、サッカーでボールを蹴ることはしないでしょう。
 
 
後になってサッカーをやったことで足腰が鍛えられていて結果、野球に繋がった! 
 
 
なんてことはあるかもしれませんが、
これは後になって気付けることなので、
 
 
 
『サッカーをやってる時には気付きにくい』ことです。
 
 
そもそも、進んでサッカーという他の競技を野球選手はやらないと思います。
 
昔の漫画だったら、前にやってた競技がその後活かされたという展開はよくありましたけどね。
 
 
 
僕は物書きになる為に日々頭を悩ませていますが、他のことだってします。
 
 
毎日毎日四六時中書きまくるのが物書きとして大成する近道なのかもしれませんが、それだけが道ではありません。
 
 
 
僕の好きな漫画のキャラでこんなことを言うキャラがいます。
 
 
 
『一番の近道は遠回りだった』
『遠回りこそが俺の最短の道だった』
 
 
 
急がば回れ、ではありませんが、ようは『目標に向かうにあたって、遠回りにも思える日々は自分にとっては最短距離』ということです。
 
 
 
結果的に目標達成してしまえば、遠回りも近道も関係なくなりますよね(笑)
 
 
大事なのは目指す場所まで向かう姿勢と意識だと思います。
 
 
「何やってるんだろう」
「こんなことやってる場合じゃないのに」
「もっと努力して頑張らなきゃ」
 
 
と思うのは大事ですが、それで目の前のやるべきこと、仕事だったり勉強、家族との時間を蔑ろにするのは良くないですよね。
 
 
日常のあらゆることを大切にして、目指す場所へ向かうことを焦らないことが大切なのかもしれません。
 
 
近道を行こうと、遠回りを歩こうと、同じ場所を目指す道です。
 
 
 
人生って何がプラスになるかわからないですから、どんなことをやっていても何かしらの糧になっていて、その人が歩んだ道だから見えてくるものっていうのは必ずあると思います。
 
 
鬱を経験した人だからこそ、鬱の人により親身に寄り添えたり、やっていたコンビニのバイトの経験が独自の視点を生み出す経験になってたりもすると思います。
 
 
僕なんか遠回りしまくっている気がします。
 
 
他の人が一年で進む距離を僕は五年とかで進んでいるかもしれません。
 
 
要領がいいとは決して思えませんが、それでも前には進めていると思ってます。
 
 
あれです、ウサギとカメのカメですよ。
 
 
色んな世界に遅咲きだけど、その人だから出せる持ち味があったりするのはそう言った遠回りを経てるからなのではと思います。
 
 
超天才のスピード型は諦めて、鈍足だけど自分型で僕は行きたいと思います。
 
 
「みや」

本能は知っている

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じぶんの本能は知っている
居るべきその場所を
 
 
 
よく部屋に侵入してくる、てんとさんから出てきた言葉です。
 
 
 
この日はカーテンの隙間から溢れた日向でじっとしていました。
 
 
 
流石、お天道様の名を冠するだけのことはありますね。
 
 
おそらく、本能が赴くままにこの日向に来たのでしょう。
 
 
 
僕ら人間の本能の中にも、何故か居心地がいい。しっくりくる場所に引き寄せられるというものがあると思います。
 
 
 
そこは場所ではなく、誰かの隣だったり、同じ空間に居ることがそういう場になるのが、てんとう虫でいう日向に当たる場所なんだと思います。
 
 
けど、普段から意識してないと「ふむ、自分だったら何処だろう」ってなりますよね。
 
 
思考で考えたらすぐには出てこないかもしれませんが、本能、自分の中では案外答えというものが出てたりします。
 
わからないフリ、気付いてないフリを無意識の中でやってしまいがちです。
 
 
ついつい行っちゃうところ。
会うと安心する人。
逆に安心や、元気にさせる人。
よくよく考えたら必要とされていたり、求められている場所。
 
 
分かりづらかったり、表には出して貰えないことだってあるかもしれませんが、居てもいい場所、居て欲しいと思われている場所はなんとなくわかるものです。
 
 
僕は必要とされているかと思ったら、たまたまそのポジションが居ないだけで、居ないよりはマシだけど、居なくなるなら構わないよ。という経験をしたことがあります。
 
違う人は引き止められてたけど、僕の時はそうじゃなかった。
 
全部僕が招いたことではあったんですけど、当時は変に言い訳して「もっと引き止めたら残ったかもしれないのに」とか最高にダサいことを言ってたりしました。
 
 
認めたくなかったんでしょうね。
でも、認めるというか客観的な事実を受け入れた時、
 
 
「いやまぁそらそうだよね。それまでの姿勢とかスタンスしょうもなかったもんね。同じ立場なら、僕でも僕を別に引き止めはしない(笑)」
 
って思えるくらいになりました。
今ではいい思い出。恥ずかしいけど(笑)
 
 
では現状、そんな場所がないという方は、疲れていたり、そういう自分が感じていることに対するアプローチが弱いのかもしれません。
 
 
日々なんとなく過ごしていると、自分がどんなことに何を感じているのか?忙しかったりすると感じる暇ないですよね。
 
 
別に家の布団でもトイレでもいーんです。
自分のベストプレイスこたつの中、とかでもいいじゃないですか。
一人が好きとか、好きなことやってる時間を本能が求めているならソレだって全然自分の居場所だと思います。
 
 
難しいこと考えなくていーんです。
 
 
※以下、過去に書いていたこの画像言葉に対する文の一部。小文字は付け加えた。
↓   ↓    ↓
 
今貴方が居るその場所は居心地の良い、暖かな日向ですか?
 
 
日陰で寒い思いをしていませんか?
 
 
きっと、貴方の本能はもう知っています
 
 
貴方の居るべき場所、日向を。ドヤァ……

 

 
 
 
…………言いたいことはわかりますが、この時の僕は何様だったんでしょうね。一丁前に人様に何か享受出来るとか思い上がっていたのでしょうか。
 
 
そんな感じで、自分の好きなところ、落ち着ける場所がある人はそこは大切にして、まだ見つかってない人は何処が居心地が良いのか感じてみてくださいね。
 
 
「みや」

闇の中の光 画像言葉

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どんな闇の中でも
光が射す道はある
 
 
 
心に影が掛かり、闇の中に足を踏み入れてしまうことってありますよね。
そういう時ってなかなか負の連鎖、マイナススパイラルから抜け出せない。
 
 
けど、があるところにもあると思うんですよね。ゾーマ様ー!
 

 

 

 
正確には、闇の中にいるからこそ見える光もまたある訳で、
 
 
落ちてるなー、色々嫌になって何もかも投げたしたいなー、とか考えれば考える程マイナスなことしか出てこない「マイナススパイラル」に陥った時こそ、
 
 
普段とは違う感覚、視点になっているので、新しい自分や発見を見つけやすかったりします。
 
 
今まで意識してなかったことが、闇という湯に漬かることで垢のように出てきたりします。む、例えが汚いか?
 
 
そんな時だから気付けることがあるのかもしれない。
 
 
今までと違う見方が出来るチャンス!
 
 
って無理矢理決ポジティブになる必要はないです。それは表面上で誤魔化してしまうので、それなら気が済むまで落ちた方がいいです。心に無理が生じますしね、無理矢理ポジティブシンキングは。
 
 
 
ただ、普段とは違う時になった時は変われるチャンスです。
 
 
今までやらなかったことや、見なかったものなどを見るきっかけにもなってたりします。
 
例えば僕はこの記事の時みたいに、度々自分の無価値感を感じて死にたくなる時があったりします。

 

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ヲタクに恋は難しい (7)

ヲタクに恋は難しい (7)

 

 

 笑って一旦リセットとかでもいいですよ。

 

焦りや先の不安だったり、とにかく二十代前半から中盤は定期的に死にたくなってました。マンションの屋上から下へ吸い込まれる感覚とかあったりしました。

 

 

そして、26歳の時も例年通りその状態になって苦しみ泣いたりしてたんですけど、ふと気付いたんですよね。

 

 

「あれ、死なねぇなぁ自分」

 

 

っと。

そこでそういう時に陥った時に、これは感覚なんですけど、僕の中になんか強固な塊のような存在がいつもあったなって気付いたんですよ。

 

どんなに落ちても、絶対に一線は踏ませない、なんだかよくわからないもの。

 

 

訳わからないですよね(笑)

でもそこで「ああ、多分どんな苦しくても自殺だけはしないんだな」って。

その部分は安心だなって。

 

 

以来僕は、僕の中の強固なソレに信頼をおいています。

 
特殊な例かもしれませんけど、そういった闇の中だからこそ見える光とも言える道っていうのは、確かにあるんだと思います。
 
 
あとは「うわー今落ち込んでんなー! 落ち込んでるよ自分!」って自覚するのも開き直れたりします。
 
で、なんでこんなに落ち込んでるんだ?
 
あれが嫌だったから? 
ここが許せなかったから? 
これを大切に思ってたから?
 
とか自分で分析してみると、今後同じようなことがあったても前よりは落ち込まずに済んだりします。
 
 
その時見つけた光は必ず自分の糧になるはずなのです。
 
暗闇の中に居る時こそ、光の存在を強く感じることが出来る。
 
闇の中だからと言って、目は閉じずに開けていれば何処かで光る輝きが見えてきますよ(^^)

 

 

暗い道程街灯の存在ってよく見えるじゃないですか。

 

自分にはこれがある、とか。

これが自分の支え、とか。

 

こころが晴れるノート:うつと不安の認知療法自習帳

こころが晴れるノート:うつと不安の認知療法自習帳

 

 

 

 

普段なんとも思ってなかったものや、そういう時ありがたく光るんだと思います。

 

 

「みや」

カタチばかりに捕えられてるんじゃないの?

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カタチばかりに

捕らわれてるんじゃない?

 

 

はい、画像では読み難くて仕方ないですね。申し訳ありません(^^;;

 

 

 

 

この画像はよく見れば鳥とその影だとわかるんですが、パッと見たら鳥で埋め尽くされているように見えます。

 

 

 

このように、カタチばかりに目がいきがちなことって結構あると思うんですよね。

 

 

 

例えば生き方。

 

 

 

「俺は(私は)こうやって生きていくんだ!」

 

 

 

と心を定めて進んでいる方。

 

 

とても素敵です。

 

 

 

自分のあり方や、想いや目標をきちんと理解して行くことは大事なことですよね。

僕も見習わなければなりません。

 

 

 

しかし、そうやって定めている人は言い方を変えれば、視野が狭くなっているとも言えます。

 

 

 

 

自分の進むべき道を一心に走って何が悪いんだ?

 

 

と思う方も居るでしょう。

 

 

 

その突き進む力は確かに凄いことで、素晴らしいことです。

 

 

とてもひたむきで、懸命なのですから尊くない訳がありません

 

 

 

 

しかし、そうやって進んで来た道を今一度振り返ってみてください。

 

 

 

ちゃんと周りの人はついて来ていますか?

 

 

 

貴方一人の力だけでそこまで来たのですか?

 

 

 

大事なことは見失っていませんか?

 

 

 

成功(カタチ)ばかりに捕らわれていませんか?

 

 

その成功の先にあるものはなんですか?

 

 

 

何のためにそのカタチ、こだわりを持つと決めたんですか?

 

 

 

今一度振り返ってみてください。

その道を歩くと決めた時のことを……

 

 

 

初心忘れるべからずという素敵な言葉を昔の人は残していて、きっとどれだけ凄い人になろうが、ここを忘れていると痛い目に合う。

 

僕も常々自分というものを誤差なく伝える

というのを忘れずに記事を書いているつもりです。

 

けれど、例えブレてもそれにちゃんと気付ければ良しとも思っています。

言い方を変えれば柔軟に行きたいとも思っています。

 

 

どうも昔からの影響なのか、日本では初志一貫が美学とされていて、それを途中で変えるとは何事だ!言ったからには最後までやり通せ!という風潮がまだまだあります。

 

場合によっては、そういうことが必要な時も確かにあるかと思います。

 

 

しかし、今の時代は多様性だとか、柔軟性だとかが必要と言われています。そして、僕たち人間は常に変わっていく生き物です。

 

一年前の自分と今の自分はベースが変わらないだけで、別人と言ってもいいと思います。

 

 

そんな中で、日々見聞きすることや触れているものによっては考え方や物事の捉え方が変わることもあるかと思います。

 

それまではコレだ!って思っていても、色んなことが重なってダメになったり、思いもよらない才能に気付いたり、求めるものが変わったり……

 

 

そんな中で、貫き通さないといけないものって果たしてあるのだろうか?

 

 

自分の中に揺るがない絶対がある場合は、それを忘れずに突き進めばいいと思います。

 

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お馴染み大好きな宇宙兄弟より

 

宇宙兄弟の日々人は子供の頃から宇宙へ、月へ行くという確固たる〝絶対〟を胸に、本当に月まで行きました。

 

けど、兄であるムッタは奥底にあったものの、弟の日々人のように真っ直ぐは突き進めなかったものの、紆余曲折して宇宙飛行士を目指します。

 

 

突き通して辿り着けることも、寄り道してしまっても辿り着けるということを宇宙兄弟は教えてくれてますよね。

 

 

ちゃんと自分の中の本当だったり、忘れられない絶対があれば、きっと収まるべきところには収まるんだと思います。

 

 

どちらにせよ辿りつければ良いのですから、どっちがいいとかなくて、自分はどっちに向いているか、なんだと思います。

 

なので、最初に抱いていた初心という名の芯さえ大事にしていれば、きっと大丈夫です。

 

 

 

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蛇行運転だっていいじゃない、ブレたって、その余計な分自分の幅が広がるんだもの。

 

「みや」

人生の針は止まらない 一歩を踏み出せない人へ

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時計の針は止まるけど

時が止まることはない

 

 

よく小説なんかで、過去に悲しいこととか起きて「僕の時はあの時から止まったままなんだ」というようなセリフがありますが時は止まりません。

 

 

カッコよくて、意味深いセリフではあるんですけどね。

 

 

もし、僕が小説で書くとしたら「僕の心はあの時に置き残してしまったままなんだ」とかにすると思います。

 

 

僕たちは日々生きています。

 

嫌なことも、

 

いいことも、

 

どーでもいいことも、

 

 

 

全て自分の中に積み重なります。

やがて時計が壊れて時を刻まなくなっても、そこで終わりではありません。

 

 

時計を直すことだって、

新しい時計で新しい時を刻むことだって、出来ますよね。

 

 

人はやり直せるんです。

そう、このように。

 

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お馴染み宇宙兄弟より



 

止まるものがあるとするなら、それは自分の歩みです。

 

 

進むことを恐れ、立ち止まってしまえば、その場にある嫌な空気から抜け出すことは出来ません。

 

そんなことを言う僕も失敗するの怖い怖い人間です。

 

けど、ようやく失敗してもいいからやってみよう!

って思えるようになってきました。

 

 

失敗しないように、自分だけの範囲で平穏に生きるのもいいんですけど、平穏過ぎると退屈で刺激もないので、心が動くことが減って行きます。

 

何も考えずにそれでも良いなら、それでも幸せと感じるのなら、そう言う人はきっとそうした方がいいのかもしれません。

 

けど、少なくとも今の僕はまだまだその境地で人生を楽しむには少し早いみたいで、当って砕けるくらいが丁度いい。

 

得てして失敗談笑い話にも、誰かの教訓にもなるので、失敗どんと来いデス。

 

 

そんな感じでようやくバイトの面接が決まった「みや」です。

とにかく経験。実感して見たいと言うことで編集関係に応募して見ました。

今まで身体を動かす系の仕事しかしてこなかった僕が、やって行けるのか?

 

 

不安や怖い部分も全然ありますけど、このまま心が動かない日々を過ごす方が人生的に怖いので、行ってきます。落ちたらまた何処かに特攻します。

 

 

ひとまずこんな僕を文句も言わず実家に置いてくれる両親の懐の深さに感謝と敬意を評します。

 

 

時ってやつは本当に止まってくれませんからね。

 

 

「みや」

 

 

応援カテゴリ 実現ボックス

一時期、自分は何にも感動が出来ない、からっぽな人間だと思って、変に悩んで苦しんでいて、自分の価値というか行動などを他人に見出していたことがありました。

 

けど、人のために生きるとは堂々と言えない。そんな奥ゆかしい日本人「みや」です。

 

 

さて、皆さんの生き甲斐ってなんでしょうか?

僕は毎週の月曜日の少年ジャンプと水曜日のサンデーマガジンを読む為、今は好きなアニメと小説と漫画アプリの更新を楽しみにしてる生活です。

 

 

これだけ見ると漫画大好き人間ですね、僕。

アプリの導入は近年ですけど、週刊誌で言えば十年以上欠かさず読んでいて、読めていなかったのは去年、沖縄の離島で働いた時に、コンビニもなく、いくつかの週刊誌は諦めたくらいでしょうか。

 

 

娯楽であることは確かなんですけど、ずっと欠かさずやってることと言えばこれくらいかもしれません。NARUTOの最終回の時にジャンプが消えてコンビニを5件近く探し回ったのもいい思い出です。

 

小説書いているくらいだから、物語好きなんですよね。

 

 

そこで、こんなのあったらいいな、って思うのは、

 

 

「応援カテゴリ」

 

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ドドン!

 

漫画や物語の話から入ってしまったので、そっち方面限定の匂いが醸し出されていますが、これは全方位です。

 

前回の実現ボックスに書かせて貰った、このオススメと好きだけが詰まったSNSに付随するもののイメージです。

 

www.tatamiyatanuki.com

 

食べ物、漫画、ゲーム、映画、お店、道具、お菓子、人。プロジェクト。イベント。

 

 

自分が応援してるもの、応援したい人のことを投稿するカテゴリです。

 

 

例えば前回の記事に表示されている黄色の可愛い画像は、九州地方の方ならご存知の虎キチ君です。

オススメされて食べてみましたが、

 

 

うまい……うますぎる!九州銘菓(勝手に)トラキチ君アイス!

って今度は埼玉ローカルネタかよ

 

 

まだ一回しか食べてないのに、その美味しさに魅了され、今度九州地方に行ったら絶対食べてやろうと思ってます。九州の方、本当に羨ましいです。

 

 

僕はこのトラキチ君がもっと認知されて、全国で食べれたらいいな、って本気で思ってたりします。ちなみにブラックモンブランと同じ会社さんなので、不可能ではないはずです。

 

 

そういった超個人的な応援でいいと考えています。

結果的に好き、とかオススメなことが投稿されると思っているので。

 

 

それで、これの何がいいかっていうと。

例えば受験で頑張ってる息子とかでもいいんです。

 

偏差値40から半年で偏差値70の学校目指しているんです!

とかね。

 

こういうのってメディアが取り上げたら表に出るんですけど、きっと知らないだけで頑張っている人っていると思うんですよね。

実名は明かす明かさないは自由として、そうなるときっとこの子には凄く応援の声やエネルギーが集まると思うんです。

 

 

それを見て他の人も「いっちょやるか!」とか「頑張ってる奴、居るんだな」って思ったり知ってもらえるだけでいい世界な気がします。

 

他のSNSでもそういう投稿は出来ると思いますけど、流れたり継続することは難しいでしょう。

 

 

なので、随時応援されていることが投稿されている場があったら、それまで知らなかったこととかも知れると思うんです。

 

 

地方のお祭りとか。

地味に知られていない伝統とか。

 

 

応援したいことを応援して、そこから広がる世界を見て見たいです。

 

 

こういうのがあったら、メディアも「今SNSで一番応援されているのは、なんと一匹の子犬ちゃん!」とか出て来そうじゃないです? 盲導犬とかで。

 

 

逆に応援してくださいとかでもいいかもしれないですね。

 

 

なんでもいいんです。

地元のお店とか、活性化して欲しいコンテンツとか、廃れかけてるソシャゲとか、日々頑張ってるお父さんお母さんとか。

 

 

大きな挑戦とかしてなくても、この人頑張ってるっていうのを知ってもらいたいって気持ちで投稿ばかりが見れる場。

 

僕はいいと思うんです。

 

 

 

最近アクセスがちょっとずつ増えて来てます。

読んでいただき、本当にありがとうございます!

 

 

このブログの趣旨を今一度書くと、こうしたアイデアや僕という人物を知って、興味を持たれた方は連絡していただけると凄く嬉しいです!

感想だけでももちろんいいですし、意見などありましたら是非!

コメントでもメールでも2124ab@gmail.comにでも。

 

 

何か感じてくれる人と繋がれたり、お話を聞けたらな、と思っています。

どうぞよろしくお願いします。

 

 

「みや」

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