自分を書く文章 ぶんぶん通信「みや」ログ 

執筆者「みや」の想いや考えを共有して、共感出来る人に繋がりたい。その中で、視点や考え方が読んでくださった方に役立てばと思います。

目標は見上げるものではなく、見定めるもの

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上には上がいる
でも  上ばかりみてると疲れちゃうよ
 
 
そんなことを経験、感じたことってないですか?
目標が高い、でかいことは悪いことではないけれど、あまりでかい目標ばかり見て上を見上げていると疲れてしまいますよね。
 
 
僕の場合は良作、傑作、名作などに触れると感動する反面「これを超えるものを作れるのか……?」と自信を失くすことがあります。
おこがましいかもしれませんが、自分の遥か先を行く大先輩に対してもそう感じて凹む時というのがあったりするのです。
 
 
 
でも、そんなこと考えて落ち込んでも仕方ないんですよね。
 
 
 
今の自分に出来る最高のことをすればいいんです。
空を飛ぶ飛行機を眺めてたって、それで空を飛べるようにはならないけれど、今の自分の最高地点を常に更新して行けば、高すぎる地点にだって近付くことは出来るはずなんです。
 
さて、これを読んでいる人にも、
 
 
「この人凄いな!」「尊敬する!」
 
 
と言った人は一人くらいは居ると思います。
そういった自分にとって凄い人と並ぶ自分って想像出来ますか?
なかなか出来ないですよね(笑)
 
 
でも、その凄い人達にだって凄くない時はあったはずなんです。
 
何者でもない時期、有名でもなければ実力を伴っていない時期は少なくともあります。
ただの学生だった時、ただの会社員だった時。
どこにでも居る子供。
 
 
尊敬される方々は凄いから出来る、のではなくて出来るようになったから凄いとされたんですよね。
 
 
上を見るのはいいことです。
でも、足下を見て自分の位置を確かめるのも大事だと思います。
己を知りたる者はその他も知りたる。
 
 
何かを始めたばかりのレベル1の人が、十年以上もその業界や仕事で生きてきたレベル99の人たちを見て恐れる必要は、きっとないと思います。
 
 
ある程度やってきてるレベル20くらいの人でも同じことは言えると思います。
というか、この辺りのレベルからその人たちの凄さってより現実的に感じますよね。
 
 
そんな時に忘れてはいけないのが、
 
 
目標は見上げるものではなく見定めるもの
 
 
ということなんだと思います。
時には前を見据えることだって必要ですし、歩んできた道筋を確認することだって大事なことです。
 
それによって、最初はレベル99の頂上を目指していたのが、レベル50とレベル50で初めて出来る事をしようって新しい方向が見つかるかもしれません。
 
 
しかし、それはずっとレベル99を見上げ続けていたら見落とす事かもしれません。
少し前の時代では皆目指すのはレベル99で、途中で辞めたり、変更するのはダメな事だ、情けないといった風潮が強かったですが、今は大分変わってきてますよね。
 
 
現に僕は作家を夢見てますが、寄り道しまくりでよそ見しまくりです。
しばらく上を見るという事をしてません。
 
けど、意識の上では見定めてますよ、最終的な到達点を。
 
 
見上げるのは時々でいいんです。
肩を落とさなければ、
下を向いたっていいんです。

 

 

もし、あなたが今直面している壁が高くて挫けそうになっていたら、一度上を見るのは辞めて、今の自分の目線の景色、立っている場所や歩いて来た道。

 

それらを改めて見てみるのもいいかもしれません。

 

 

「みや」

 

見てきた世界、見方が違う人間、他人。

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見方も見え方も
違うから楽しめる
 
 
 
 
物事にしても、景色にしても、見方は人それぞれです。
 
小さな子供が見る景色と大きな大人が見る景色は例え、同じ場所だとしても、全く違うでしょう。
となると、見え方もそれだけあるということで、その数だけ楽しみ方があるということになりますよね。
 
 
 
自分にとっての見方と見え方が他の人にとっては面白い。そんなことだって平気であり得るのがこの世界なんだと思います。その逆もまた然りです。
 
 
どんなにヒットしている作品でも、人によって感想や受け取るメッセージなんかも違うのはやっぱり他人と自分は同じ人間ではないからなんだと思います。
 
 
けど、今言ったのと違う意味で同じ人間ではあるので、共感や似た感覚の人は少なからず居たりするのもまた事実です。
 
 
ということは、今見えている、感じているこの世界は自分だけのものとも言えそうですよね。
 
 
自分だけのものでありつつ、共有している世界なんです。
 
 
この共有という部分があるからこそ人は繋がれたり、また交われないという感覚や実感を感じるのだと思ったりする訳です。
 
「みや」も割とよく感じます。
 
 
共有できるからこそ、共有出来ないことに苦しんだり、疎外感を感じたりする。
ありますよねー。
でも、それで良いんだと思います。
 
 
何故なら他人とは自分の知らない世界を知っている存在でもあるんですから。
 
 
自分が自分だけの世界を持っているように、他人もまた自分だけの世界や感覚を持っている。
 
 
言い方を変えると「歩んできた人生」を持っていると言ってもいいかもですね。
見てきた世界、見方が違う人間、他人。
そんな他人が居てくれるからこそ、自分という存在を明確に感じれるのだと思います。
 
でも、だからこそ他人との違いや差もまた感じてしまうんですよね、人間って(笑)
 
 
それらを感じた時にどうアプローチするのかは人それぞれだと思います。
 
 
落ち込むこともあるでしょう。
面白いと捉える人も居るでしょう。
特に気にしない人も居るでしょう。
 
 
別にどれだって構う必要は特にない。
 
 
違かったら違かったで、いずれ「共有」されてわかる時が来たり、断片でも知れる、触れられる時が来るのが今の時代なんだと思います。
 
 
共有出来ないが共有出来るように、人間いっぱい居ますからね。
そのうち何分の一の人と巡り会えて、共有出来たらいいんじゃないかなーなんて、書きながら思う「みや」です。
 
 
なんかこんなことを書いていると共有至上主義みたいになってますが、共有だけが全てではない部分も確かにあります。
 
 
冒頭に書いたように、見え方や見方が違うから楽しめるのが人生です。
 
 
「そんな見方あんの!?」みたいな、ある種理解の出来ない見え方もそれはそれで楽しい、面白かったりしますよね。
 
 
要は何だっていい。
何でもあり。
人生にルールやレシピなんてもはないんですもの。
 
 
 
「みや」
 
 

やってみたらわかることが確かにある

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その気になれば
太陽とだって遊べる
 
 
 
 
沈みゆく夕陽に上手い具合に足を添えているトリック写真です。
 
 
 
まるで夕陽をボールにしてサッカーをしているようにも見えますよね。
 
 
 
このようにその気になれば、あの太陽だって遊び道具に出来てしまうのです。
 
 
 
このその気になる……というのが結構大事でして、人が行動を起こす原動力の一つだったりしますよね。
 
 
 
その気とは、要するにやる気だったり本気だったり、今の自分より強い気持ちを出すということです。
 
 
 
 
常に出し続けられればいいのですが、誰しもがそんなことは出来ませんよね。
 
人類がそんなことがたやすく出来てしまう種族なら、自己啓発やらなんやらは今ほど流行ってなかったと思います。
 
 
 
また、やる気や本気ではあるけど、なかなか行動に移せないなんて人もいるでしょう。
 
 
 
そういう人は自分が動けないダメな奴だと悲観せず、むしろ動けたら自分は凄い奴なんだと思ったらいいんじゃないかな、とも思います。
 
 
よく言う「やれば出来る子」ってやつです。
僕は割とやっても意外と出来ない子ではあるんですけどね(笑)
 
 
でも、自分が何が出来て、何が出来ないのかはやって見ないことにはわかりません。
やる前の自分は未知数つまり磨かれていない原石も同然です。
 
 
 
やる前の自分の時くらい無駄に自信があってもいいと思います。
そこから失敗したり、恥をかいたりして「クソゥ!」と悔しがるのか「あーダメだー向いてないな、こりゃ」と早々に引き下がるかはやった後の自分でしかわからないんだと思います。
 
 
僕はひとまず二回か三回は失敗してから何か辞めたりしてます。
それでも何故か続けてたり、やってみてることは数える程しかないですけど、未だに失敗か上手くいってないまま進んでいます。
 
 
きっと、それが僕のやる気だったり、その気になっているということ、または諦めきれない部分なんだと思います。
 
 
これを読んでくれている人の中にも何かしらそういったことはあると思います。
 
 
学生の頃に諦めたことだっていいですし、現実を見ろと言う言葉と周りの圧力、無言の声に閉ざしたことだってあるかもしれない。
 
 
それらのことを思い出して「やる気」「やってみたい気」「後悔」「わくわく」なんてものが一欠片でも心に灯ったのなら、もう一度やってみてもいいかもしれません。
 
 
別に、その時と同じ目標じゃなくたっていい。
甲子園から草野球で楽しみたいに変えたって。
ロックスターから音楽好きで集まりたいになったって。
 
 
規模と熱が違っても、どの物事も楽しめる余白はあります。
 
 
その気があれば何でも出来る!
どっかのプロレスラーの方も近いようなことは言ってますし、自分のタイミングでやる気、出しちゃいましょう。
 
 
また、全く初めてやることや分野でもなかなか飛び込めない時ってあると思うんですけど、そう言う時は「まぁ、レベル1だし」みたいに僕はよく思ってます。
 
 
どうしたってレベル10や20のものを見て始めるものだから、レベル1の自分の実力って人によっては凹みますよね。
また、同じタイミングで始めた人が近くに居て、その人が最初からレベル5はあったりすると凹む。僕は凹んでない振りして凹むか、気付かないうちにシャットアウトしてしまってます(笑)
 
 
こう言う時に大事なのってきっと上手い下手とかではなくて「自分がどういうつもりでやっているのか」なんだと思います。
 
 
プロになりたいとかなら凹んでる場合じゃないでしょうし、楽しみたいだけなら気にする必要はない。
 
 
始めたことが仕事なら焦るより確実に一歩一歩進むしかないでしょう。
 
 
この辺りが明確になってないと色々ブレる気がします。
 
 
自分が生きたいように。
 
 
「みや」
 
 

躊躇ばっかり、正面だけで見てばっかり

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その高い壁
横から見たら
うすい壁かもしれない
 
 
 
 
 
今回は自分で書いた画像言葉ではないのですが、とても考えさせてくれるなと思ったので載せてみました。
 
 
自分としては画像と言葉が合っているか怪しいと思っているんですが(笑)
しかし、言葉はとてもいい言葉です。
 
 
 
この画像言葉は目の前に立ちはだかっている壁はハリボテかもしれないということを言ってるんですよね。
 
 
 
その見た目や大きさに惑わされているだけなのかもしれない。
そういうことって生きていると割りとあったりしませんか?
 
 
実際に触れてみれば気付けることなのに、前情報先入観でものを見てしまうことって。
 
 
 
人でも、物事でも、仕事でも。
 
 
 
その壁の高さや厚さ、質感などは自分で見極めることですが、見た段階や知った段階ではまだ貴方の判断とは言えません。
 
 
 
他人の物差しで壁の高さや見た目を測っているだけに過ぎない場合がほとんどです。
 
 
 
自分の物差しだけで物事を見るのは時として間違いを起こしますが、他人の物差しだけで見るのもまた間違いとも言えます。
 
 
 
他人の物差しはあくまで目安。参考や情報の一つです。
 
 
だって実際に触れたり、その壁を乗り越え壊したりするのは自分なんですからね。
 
 
自分で見たら、高くもなく、厚くもない壁なのかもしれませんよ?
他の人からしたら、ぶ厚い壁かもしれないですけどね。
 
 
ということをこの画像は教えてくれているのだと思います。
 
 
 
もし、僕が自分の物差しだけで物事を考えていたら、この自分が書いたのではない画像言葉を出すことはできなかったと思います。
 
 
自分もいい、他人のもいい。
いいものは良いと言えた方が何かと楽だったり、お得だったりしますよね。
 

 

また、視点の違いで物事は変わってくるよ、ということも伝えてくれていると思いますよね。

 

 

正面から見たらその壁がどれくらい分厚くて自分にどうにか出来るのか、出来ないのかなんて判断出来ないけれど、例えば経験者だったり、違う側面から挑んだ場合はどうなのか?

 

 

なんて思考や視点を変えていけば、難しいな、大変そうだなと思っていた壁も案外大したことない薄板一枚かもしれない。

 

 

僕ら現代人にはよくこう言ったことはあるのではないか?

そう「みや」は思ったりもします。

 

 

最初の一歩を踏み出すのが勇気がいる。

ありますよね〜これ、本当に生きていたらあちらこちらに。

 

 

躊躇ばっかりするんだ、人間って。

それで一歩間違えたらそのことに卑屈になったり、自分を責めたりすることだってあったりしますよね。

 

 

でもまぁ、他の人も大体そんなもんだったりします。

その事実に安心するもいいし、危機感を覚えるのだってどっちだっていいと僕は思います。

それが嫌ならちょこっとだけ頑張ってみればいいだけですし。

 

 

こんなこと書いてる僕だって探せば躊躇だらけだったりします。

けど、一個一個潰していったり、進めて行ってます。

 

 

ペースなんて人それぞれです。

二十歳で成功する人も居れば、四十で成功する人も居ます。

取り立て成功みたいなのがなくても、人生楽しんで幸せそうな人だって居ます。

 

 

色んな人を横から見たら、案外ぶ厚いものがあったり、思いの外薄かったりきっとあると思います。

 

 

普段はだらしなくて、ダメなところばっかり目立つお父さんもそれまでの人生とかどういう意識で生きていたのかという普段からじゃ見えない【横】から見たり聞いたりして見ると思ってた以上に分厚かったりするものです。

 

 

正面だけじゃわからないことっていっぱいですよね、ってお話でした。

 

 

「みや」

 

躊躇ばっかり、正面だけで見てばっかり

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その高い壁
横から見たら
うすい壁かもしれない
 
 
 
 
 
今回は自分で書いた画像言葉ではないのですが、とても考えさせてくれるなと思ったので載せてみました。
 
 
自分としては画像と言葉が合っているか怪しいと思っているんですが(笑)
しかし、言葉はとてもいい言葉です。
 
 
 
この画像言葉は目の前に立ちはだかっている壁はハリボテかもしれないということを言ってるんですよね。
 
 
 
その見た目や大きさに惑わされているだけなのかもしれない。
そういうことって生きていると割りとあったりしませんか?
 
 
実際に触れてみれば気付けることなのに、前情報先入観でものを見てしまうことって。
 
 
 
人でも、物事でも、仕事でも。
 
 
 
その壁の高さや厚さ、質感などは自分で見極めることですが、見た段階や知った段階ではまだ貴方の判断とは言えません。
 
 
 
他人の物差しで壁の高さや見た目を測っているだけに過ぎない場合がほとんどです。
 
 
 
自分の物差しだけで物事を見るのは時として間違いを起こしますが、他人の物差しだけで見るのもまた間違いとも言えます。
 
 
 
他人の物差しはあくまで目安。参考や情報の一つです。
 
 
だって実際に触れたり、その壁を乗り越え壊したりするのは自分なんですからね。
 
 
自分で見たら、高くもなく、厚くもない壁なのかもしれませんよ?
他の人からしたら、ぶ厚い壁かもしれないですけどね。
 
 
ということをこの画像は教えてくれているのだと思います。
 
 
 
もし、僕が自分の物差しだけで物事を考えていたら、この自分が書いたのではない画像言葉を出すことはできなかったと思います。
 
 
自分もいい、他人のもいい。
いいものは良いと言えた方が何かと楽だったり、お得だったりしますよね。
 

 

また、視点の違いで物事は変わってくるよ、ということも伝えてくれていると思いますよね。

 

 

正面から見たらその壁がどれくらい分厚くて自分にどうにか出来るのか、出来ないのかなんて判断出来ないけれど、例えば経験者だったり、違う側面から挑んだ場合はどうなのか?

 

 

なんて思考や視点を変えていけば、難しいな、大変そうだなと思っていた壁も案外大したことない薄板一枚かもしれない。

 

 

僕ら現代人にはよくこう言ったことはあるのではないか?

そう「みや」は思ったりもします。

 

 

最初の一歩を踏み出すのが勇気がいる。

ありますよね〜これ、本当に生きていたらあちらこちらに。

 

 

躊躇ばっかりするんだ、人間って。

それで一歩間違えたらそのことに卑屈になったり、自分を責めたりすることだってあったりしますよね。

 

 

でもまぁ、他の人も大体そんなもんだったりします。

その事実に安心するもいいし、危機感を覚えるのだってどっちだっていいと僕は思います。

それが嫌ならちょこっとだけ頑張ってみればいいだけですし。

 

 

こんなこと書いてる僕だって探せば躊躇だらけだったりします。

けど、一個一個潰していったり、進めて行ってます。

 

 

ペースなんて人それぞれです。

二十歳で成功する人も居れば、四十で成功する人も居ます。

取り立て成功みたいなのがなくても、人生楽しんで幸せそうな人だって居ます。

 

 

色んな人を横から見たら、案外ぶ厚いものがあったり、思いの外薄かったりきっとあると思います。

 

 

普段はだらしなくて、ダメなところばっかり目立つお父さんもそれまでの人生とかどういう意識で生きていたのかという普段からじゃ見えない【横】から見たり聞いたりして見ると思ってた以上に分厚かったりするものです。

 

 

正面だけじゃわからないことっていっぱいですよね、ってお話でした。

 

 

「みや」

 

誰のための自分なのか

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果てしない道のりを
歩いてきた
たぶん
一人では決して
歩けなかった
 
 
 
 
人は一人で歩くことは出来ても、歩み続けることは難しい……そんな生き物だと思います。
 
 
それは誰かとなら、という意味もあれば、誰かの為なら、という意味も含まれます。
 
 
 
画像では二人の人が砂漠を歩いています。それぞれ楽器を持っていることから、おそらく二人は相棒やパートナーの関係でしょう。
 
 
 
人は自分ではない誰かの為に力を発揮する生き物です。
どんな仕事だって、結局は誰かの為になっていますよね。
 
 
やる気なくやっているコンビニのバイトだって、
生活の為にやっているスーパーのレジだって、
機械のように毎日淡々とこなすだけの作業だって、
 
 
自分がそういう意識を持ってなくとも、誰かは貴方の仕事で助かっていたりするのは確かです。
 
 
そういう意味でも自分だけの為だけだと限界があります。
 
 
 
有名な言葉で
 
 
 
お前の為にチームがあるんじゃねぇチームの為にお前がいるんだ
 
 
 
というのがあります。
 
 
 
この言葉はスポーツでの話ですが、どんなに優れた人でも一人だけでは底が見えます。
というより、一人だとやれる範囲や量などはどうしたって限られてきますよね
 
だから会社の社長は人を求める訳ですし。
 
 
 
野球で誰にも打つことが出来ない球を投げるピッチャーがいたとしても、それを捕れるキャッチャーがいなくては成り立ちません。
 
例えどんな有能で凄い能力や経験があっても、その力を発揮出来なければ、無いのと同じようなものになってしまいます。
 
宝の持ち腐れってやつですね。
 
 
辛い仕事も自分の為より家族の為の方が頑張れたりしますよね?
また、自分へのご褒美の為でも人から労いがあった方がやる気が出ますよね。
 
 
人は一人では弱いですが、誰かの為なら何処までも強くなれる生き物です。
 
 
まるで漫画で言われてそうな言葉ではありますが、一つの真実ではあると思います。
 
 
その誰かが、わからない場合、見当たらない場合はそういう人が現れた時の為にしっかり刀を磨いて鞘に収めておきましょう
 
 
 
いざって時に刀が錆びていては守れるものも守れません。
 
 
 
また、力を発揮させてくれるパートナーや相棒が現れてもいいように準備をするという気持ちでもいいかと思います。
 
なんでもかんでも一人でやる必要はないですよね。
でも、これってよくドラマや漫画などではよく見る気がします。
 
 
登場人物に対して
 
 
「もっと周りを頼れよ!」
「なんで一人で抱え込むんだ! 相談すればいいのに」
 
 
って思ったことってありませんか?
 
 
第三者目線、他人だったらわかることって本当にあるんだと思います。
ということは逆説的に自分ではわからないことはあるってことですよね。
 
 
一人だと気付けないことも、二人なら気付けたり、または乗り越えられたり出来る。その人数が増えれば単純に考えるともっと幅が広がったりする。
 
 
それは
友達なのか
恋人なのか
夫婦なのか
家族なのか
仕事仲間なのか
 
 
人によって違うかもしれません。
けど、誰かしらと関わりはあると思います。
 
 
今いる目の前の人は自分にとってどんな人なのか。どんな存在なのか。
漫然と日々を過ごしていては見逃してしまってるかもしれないことを、たまにはかんがえてみたりするのもいいかもしれませんね。
 
 
 
「みや」
 

自分だけで辛くなるなら他に見て貰えばいい

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それを囲いにしているのは
キミ自身だ
 
 
さて、皆さんにはこの画像がどのように見えますか?
黒枠に捕らえられた猫。
ぱっと見た限りではそう映ったりしてもおかしくないと思いますけど、実際は違いますよね。
 
そう、これは
鉄棒とその影の中に居る猫の画像です。
 
 
 
猫が黒い線に囲まれているようにも見えますが、実際はそんなことはないですよね。
 
 
 
鉄棒は上にあるし、その影は猫にとって何の妨げになっていない。
 
 
 
勿論、猫自身も別に捕まったなんて思ってないでしょう。
 
 
 
けど、世の中にはあるはずのない枠に捕らわれて身動きが取れないという人は確かにいます。
 
 
 
例えば仕事だとか、例えば家庭だとか、例えば友人関係だとか。
 
 
 
他の人がなんとも思ってないことでも、自分にとってはしがらみでしかないと感じること、感じてしまうこと。
 
 
 
あったりしますよね?
 
 
 
そこで、
 
 
自分には合ってない。
あの人は自分とは違う。
自分は悪くない。
 
 
 
と自分を被害者にしてしまうことが人間にはあります。
あるいは自分を取り巻く環境が悪いと叫ぶ人もいます。
 
 
悪いのは自分ではない、他のものだと思ってしまいがちな時があったりします。
 
 
 
でも、そういう時って自分のことなのに他人事のように考えている時だったりします。
 
 
悪い原因が自分ではないと改善しようとしない。
仮に原因が自分でなかったとしても同じ。悪いのが自分でないと考えるから変化や修正、改善をその他に任せる。
 
 
でも、結局は受け取り方次第なんです。
 
 
 
目の前の枠は行く手を阻む壁ではなく、ただの影だったりするんです。
 
 
 
踏み出してみれば、なんてことのないように越えられるようなことなんです。
たった一歩で今まで捕らえられていた枠が消え去ったりするんです。
 
 
けど、文字にしたり、言葉にすると凄い簡単な感じになるけれど、実際にこのってやつに囚われている時はそう簡単には考えられない。
なぜならそこに苦しんでいるせいで、気力だったりが削がれているし、何より気付いてない人だっている。
 
 
自分が何に囚われているのか。
原因が自分なのかそうでないのか。
 
 
判断が難しい。
 
 
なので、この画像をもう一度見て見てください。
 
画像の猫が別に枠なんてないと気付いている可能性はありますけど、少なくとも違う視点、つまり他人から見たら影だなってわかりますよね。
 
 
逆に、他人だからこそ枠と見えてしまっていて、それを貴方に言ってきてる場合もあるかもしれません。
 
そういう場合は複数の人に聞いて貰うのもいいかもしれません。
 
 
見え方捉え方は人によって違いますからね。
 
 
自分だけで辛くなるなら他に見て貰えばいい。
 
 
「みや」

チャップス断食の行方 ふざけた断食をするとどうなるか

ご無沙汰してます世界一ふざけた姿勢で断食を宣言し、実行をした挑む姿勢を忘れない愚者こと「みや」です。

 

どんな経緯だったのか、この記事がチャップス断食最初の入り口という方はこちらから時間がある時にでも覗いてやってください。

 

最後にまさかな発表もあるよ。

三つ目の記事を読んでいることを推奨

 

 

www.tatamiyatanuki.com 

www.tatamiyatanuki.com 

www.tatamiyatanuki.com

断食三日目

 

さて、順を追ってお話をすると、二日目の内容を書いた次の日である断食三日目。梅流しなるものを実践するも「宿便」と思われるものは出なくて、肩透かしを食らってました。それでも度重なるチャップスの誘惑になんとかうち勝ち続けました。

 

しかし三日目となると口に何か固形的なものを入れたくなる欲は最強レベルに到達するようで、母親が食べてこぼした柿の種の欠片にまで手を伸ばそうとする始末。

 

 

「こ、これくらいいいよな……ヘヘッ」

 

そして頭を振って止める僕。一体僕は何と戦っているんだ。

 

この頃の僕は目がやばい感じになってて、朝とかは割とどの日もなんてことないけど、昼過ぎから夜にかけての時間の経過の遅さと言ったら今まで感じたことのないくらい長い感じでした。

 

 

きっと、こうならない為のお金払って断食コースとか事前に食事の量を減らしたり、だとか環境や前もっての準備が必要とされているのだろう。

 

 

家では誘惑がありすぎる。

ある意味鉄の意志や精神力は試せるかもしれないので、そういう方面でも自分を高めたい方はやってみるのもいいかもしれない。

 

落花生つくねとかいう、ピーナッツと柿の種を砂糖か何かでくっつけた雷おこし的なフォルムのお菓子の誘惑には何度か負けそうになった。

ほんとボクサー漫画の減量中みたいにこれに手を伸ばし、掴んで口に運ぶ手前まで行って、止めるとかやってました。いやだから僕は何を戦っていたのだろう。

 

あとね、夕飯の匂いとかマンションだと他の家の食卓の匂いとかいつも以上に敏感に嗅げてしまって、苦しかった。

 

そういった意味でも余程の理由がなければ家、特に他の誰かが住んでいる中での断食はオススメしません。1回目の忠告

 

 

終わった後の回復食

さて、そんな三日目が終わり四日目。今回の断食は三日間なので、ここからはもう自由に食べていい!待ちに待ったぜ!食って食って食いまくったるぅぅぅぅぅっぅ!

 

って訳にもいかないのが断食というもので。

なんなら終わった後の方が大事と言われているくらい。ある程度断食やファスティングとかをご存知の方なら「まぁ、そうだよね」って感じだと思います。

そうじゃない方の為にもあえて二回言います「終わった後が大事」だと。ここ、覚えておいてください。

 

 

さて、断食後の食事を回復食と言います。なぜか「かいふくしょく」と打つと打ったこともないのに「回復職」が最初に出てきます。僧侶がそんなに求められるんでしょうか。

 

脱線しました。

さてこの回復食が具体的にどういったものかというと

 

回復食は重湯から始め、消化の良いおかゆや具のない味噌汁、柔らかくなるまで煮た野菜など、早く消化できるものを選ぶようにしましょう。

回復期の食べ物として、理想的と言われているのが、食品研究科であり、医学博士でもある吉村裕之氏が提唱する「まごわやさしい」に掲げられた食材です。

「まごわやさしい」という言葉は、バランスの良い食事を摂るために選びたい食品の頭文字を並べたもので、それぞれ以下を表しています。

ま:豆類・豆乳
ご:ごま
わ:わかめなどの海藻類
や:野菜
さ:魚
し:しいたけなどのきのこ類
い:イモ類
ただし、魚などの動物性タンパクについては、回復食として適さないという声もありますので、実質的には「まごわやしい」と覚えておいたほうが良いかもしれません。

 

まぁ、体に優しい、消化の良いものってことですね。いきなり濃い味付けや動物性のものとかだと胃とかがびっくりして、負担がかかってしまうんですね。

 

僕もこれに習って大根だとかで作った野菜スープを作って飲み、食べました。

 

 

お腹が語りかけます。

うまい……うますぎるっ!(突然の埼玉ローカルネタ)

 

 

染み渡る暖かさと野菜の甘みと旨み

いやぁ、食べられるって本当に幸せなんですね。

がっついてしまいたい気持ちを抑えて、ゆっくりゆっくり飲んで食べて、満足感というのはかなりのものでした!

 

そう、……この時は。

 

本当の戦いはここからだった

 

断食の時は食べてはいけないんだ!っていう戦いでしたが、断食後は食べて良いんだ!けど選ばないとね、という戦い。

 

一度刺激された食欲というものは恐ろしくて、どんどん食べたくなります。

 

 

これくらいは良いかな?

これはもう良いんじゃないか?

少しくらいなら。

 

という、断食中ではないということが、食べられる状況ではあるということが思考を占領していきます。

 

 

とはいえ、せっかくの断食を台無しにもしたくないので、回復食一日目は普通に優しいものだけを食べました。

 

 

実際に恐ろしいのは二日目だったのです!どーん!

 

二日目になるとさっきの「これくらい」が「二日目だしこれくらい」になって、胃とかの負担も一日目に比べたらマシじゃないかって考えが出てきます。

 

なんていう愚かさ!

悲しき人間の性なのか、あるいは「みや」の心の甘さなのか。

はたまたどっちもなのか。

 

 

いずれにせよ、回復食二日目で僕はミニスットップのソフト(父が買ってきた)コンビニのコッペパン(父が買ってきた)の誘惑に勝てずに食してしまう。

 

 

まぁ、だからと言って死ぬ訳じゃないし、そこまで悲観的にも大袈裟に書かなくても良いじゃないかという話なんですが、これがきっかけなのか、断食による体力低下なのかはわかりませんが、回復食三日目に突入したところで「みや」倒れます。

 

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謎の体調不良

 

ひょっとしたら熱中症の類だったかもしれないのですが、七月二十八日、姉が体調崩して甥っ子の面倒を見る為に姉宅へ向かったところ、途中で気分が優れなくなる。

 

三日目ですっかり油断してキットカットを食べて向かっていた。

 

最初はそれが原因で、でも水飲んで口の中をスッキリさせれば大丈夫かなと思っていたんですが、お昼を過ぎる頃には立っているのがキツくなるくらい体がしんどくなって、頭が重くて辛くなりました。

 

最終的には熱も出て、夜うなされ、腹も下し、苦しむ結果になりました。

 

まぁ、怪我の功名で体重は更に減ったんですけど、辛かった。

昨日の話なんですけどね。

 

食べない、と食べられないの違いを短期間で味わうことになるとは思ってませんでしたね。

 

皆さんも夏や自分の考えだけの断食はしない方が身の為です。二回目の忠告。

 

まとめ

とまぁ、そんな感じでまだ若干体調も芳しくないんですけど、こうしてブログ書けるくらいまでは回復しました。

ふざけた断食をしてみて思ったことは一つ!

 

 

ちゃんと理解ある人の元でやりましょうね。

 

特に最初。

なんの為にそういった環境が用意されるのか。

そういった専門的な人たちが存在して、商売しているのか。

 

自分でやるとどうなるのか。もう皆さんわかりますよね。

わかってきたなら、とか一日だけ、とかならネットで調べてやるのはそう難しくないと思います。

 

回復食しかり、断食中しかり。

 

今度やる時はお金を払ってでもわかってる人の元でやりたいと思いました。

 

リバウンドとかでもなく、直後に体調崩すと人って嫌でも理解するんですね。

 

 

ああ、間違った方法だったんだなぁ……(遠い目)

 

 

っと。

 

断食自体はいいものだと思います。

色々考える時間になったり、食の有り難み。僕の場合は目覚め、朝起きるのが早くなりました。

 

適度に内臓を休ませたりするのは今後もやっていきたいなと思います。

 

そうそうチャップスはまだ舐めてなく、残ってたりします(笑)

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おまけ

断食二日目の記事で書いたあのふざけたこと、現実になりそうで。

「みや」断食してたら彼女できそうです(笑)

いやぁ世界って面白いですねー

気になる人は連絡ください。

 

 

「みや」

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ニート断食をする 〜チャップスの誘惑〜

今日だけで四回くらい「チュッパチャップスくらいなら平気かな」と机の上にあるチュッパチャップス(コーラ味)に手を伸ばしてます「みや」です。

 

もう、この断食を『チャップス断食』と命名してしまってもいいかもです。チャップス舐めながら決行することを決めて、チャップスに悩まされ実行する断食。

 

アホですね。

けど、今回はやるのだ。

そして、言う訳ですよ「みや」が。

 

「断食してたら仕事見つかった」

「断食したら彼女出来た」

 

と言う怪しい勧誘文句みたいなことを!

 

 

こんなふざけて楽しい感じで断食やってる人ってどれだけ居るのかなー

いや、もちろん腹減ってフラフラしたりもしてて、見た目元気なさそうで楽しそうな姿はしてないんですけど、でも楽しい。

 

だってニートなのに断食してるだけで何かに向かってるって気分になれる

ニートで何が辛いのって「何かをしてる実感がない」ってことなんだと思うんですよね。人生的にも社会的に、何も生み出してなかったり、進展の無さに苦しむ。

 

働いてたって、そう感じて過ごして居る人もいると思う。

 

ここで言っておきたいのは断食して、体調良くなって、はいおしまい。だから何?っていうことではないのだってこと。

 

この断食の先に「人生変わるかも」っていう楽観的で合理性も何もないようなことを面白がれることに意味があると思う。

 

いや、でもこれで人生変わったらウケると思うんですよね。

成功者とかの話の中にだって「え、それがキッカケ?」みてーな話あるじゃないですか。

 

そういうの自分にも起きないかなーとか思っていても、なかなか起きやしないし、意図的に出来たらとっくにやってるって話だ。

 

で、断食。

『チャップス断食』

 

ある意味非日常であるこの断食をして、何か起きたらいい話のタネになる。

そしたらそのうち「断食して人生を変えたニート「みや」さん」とか紹介されちゃったりする訳だ。

 

こんな感じの謳い文句、皆好きですもんね。

 

っとこんな感じにふざけて、ゆるい感じで断食やってます。

なので、読んでくれている人は「バカなこと言ってんなー」「でも本当に何か起こったらそれはそれで面白いかもな」程度で見守ってください。

 

 

さて、今回は経過報告的なのと、新しく仕入れた情報でワクワクしたのがあったので、それを書いてみようかと思ってます。

どうして断食を始めたのかは前の記事をお読みください。

 

www.tatamiyatanuki.com

 

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暇つぶしに始めた断食ですが、何か食べたくて仕方ない。お、目の前にチュッパチャップスが。

ああ、夕飯の匂いが部屋にまで漂ってくる。

 

二日目ということで、朝一のおトイレでは黒っぽいのが出ましたね。噂の宿便ではないにしろ、変なのが体の外に出るのは嬉しい。

 

ちなみに、塩と水の断食をやってます。

三日間やるだけで大分違うらしいのですが、先ほど書いたワクワクする情報を発見したので、それを今日この後やってみたいと思います。

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宿便が出まくる「梅流し」!?

なんか「梅流し」なるものがあるらしくて、それをすると溜まっている「宿便」が出やすくなるそう。

 

・梅流しとは

 

梅流しは、臨済宗の僧・野口法蔵氏の下で学んだインド式の断食法で、最低48時間以上、食事を抜いた後、大根の煮汁に梅干しを入れてつぶした「梅湯」を飲みながら、煮た大根や生野菜を、みそとともに食べるというものです。梅干しのクエン酸が洗剤大根や生野菜の食物繊維がブラシの働きをして、腸をきれいに掃除するといわれています。

 

 

ってことは、何か食べていいんだ!!! 

 

 

まぁ、丸二日食べてないことは変わりないんですが、それにしてもこれは嬉しい!何か食べた過ぎる断食者にとってこれは嬉しい!

 

なんか「適当に一週間くらいやってみるか」っと調子こいた感じで思ってましたが、それを三日にすることにした。

 

果たして断食と言えるのか?少なくとも48時間。二日は断食したことには違いないし、食べてないような分量なので、よしとする。

 

 

自分が良いと思ったらそれでいいそれが『チャップス断食』なのである。

 

さて、気になるやり方は

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まるで煎じ薬



【用意するもの】大根、梅干し、旬の生野菜、みそ



【やり方】
大根(厚さ1cmぐらいの輪切り)を煮る。
①の煮汁に種を取った梅干し(中ぐらいの大きさのもの2つ)を入れてつぶし、どんぶりに軽く1杯、ゆっくり時間をかけて飲む。
②の2杯目を飲みながら、煮た大根(どんぶり1杯に対して2切れぐらい)、生野菜(旬のものなら何でもいい。量は1皿ぐらい)、みそ(量に決まりはない)を食べる。③を宿便が出るまで続ける

 

 

もし仮にこれを見てやってみようという方は詳しいことはこちらを参考にしてください。注意事項なんかも書かれています。

【腸も大掃除】驚くほど出る宿便を出す方法「梅流し」とは? (2018年12月31日) - エキサイトニュース

 

人によってはやるのは控えた方がいいというのもあるみたいです。

 

 

では、明日どうなっていることやら。

 

 

お楽しみに!

 

 

「みや」

 

 

 

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世界一ふざけた断食宣言から一日目〜

昨日の夜は「断食」を終えたら色んな素敵な事が起きまくって、幸せになってることを妄想しながら眠りについた「みや」です。

 

 

 

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んで、一体何が「世界一ふざけた断食宣言」なのか?

 

www.tatamiyatanuki.com

 この記事で書いてるのだけど、この記事の断食するってことを書いているときにマックのハンバーガー食って、チョコ食べて、コーヒー飲んで、チュッパチャップスを舐めながら断食を宣言することから始まっている。

 

明日から本気出す」の体現をしてる訳だ。

 

色々舐めてる。

 

さて、人生変えたいと強く強く願った「みや」なのですが、何かしら行動しないことには、どうやら人生ってのはなかなか変わらないみたいで、棚から牡丹餅は落ちてこない。

 

それでどうして「断食」になんの?

って思われるかもしれませんが、基本的には暇つぶしです。

 

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ヒマつぶしと剣の達人ミホーク

先程貼ったブログでも書いたんだけど、あまりにも仕事が決まらなくて、そんな中誕生日がきて歳とってダウナーな気分になって、もうお手上げってなった。

 

仕事してない、出来てないことを気にすんのやーめたって心の底から白旗宣言して、不安や焦りから仕事を探すことを辞めた。

どっかからかそんな仕事が舞い込んでくる、話が来たり、たまたま見かけて直感で応募するとか、そんなことに委ねてみることにした新生28歳

 

それをすることになった経緯は貼ったこのブログを読んでみてください。

 

www.tatamiyatanuki.com

 

仕事とか彼女は運とか天とかに全任せして委ねるとして、じゃあその間は何をしようか?ってなった時に、前々から興味あって、何回か唐突にやっては失敗していた「断食」をこの機会にやってしまおうという訳だ。

 

 

なんで断食?

断食だとかファスティングという言葉はここ数年でよく耳にしたり、目にしたりすることも多いと思います。そのどれもが健康の為、体質改善、ダイエットという理由がほとんど。

 

「みや」も基本的にはそれらを目的にしています。

体調が特別悪い訳ではないんだけど、それでも今より良い状態があることは間違いない。

 

あと、このご時世「断食」ってかなり贅沢なことだと思ってたりする。

だってあえて「食べない」ってことをするって、豊かな日本だから出来ることじゃないですか?

 

そして、断食は色々な方面でも昔から語られていて。

 

とある記事によると、6000年前に建てられたピラミッドの碑文に

「われわれは食べる量の4分の1で生き、4分の3は医者のために食べる。」

と刻まれてたそうです。

ドイツのことわざで

「断食で治らない病気は、医者でも治せない」

フランスのことわざで

「断食はメスを使わない手術である」

アメリカのことわざで

「すべての薬で一番良いのは、休息と断食である」

ソクラテスの言葉で

「断食は哲学の門である」

キリストの言葉で

「病気は祈りと断食で治しなさい」

日本のことわざで

「腹八分目に医者いらず」

出典:暴飲暴食の害がすでに6000年前の古代エジプトで判明していた話

 

 

昔の人、かなり強気じゃないですか?

けど、それだけ昔から「断食」というものは良いもの、食べ過ぎが身体には良くないというのがわかっていたみたい。

 

しかも昨今農薬や添加物や遺伝子組み換え。F1など、色々な食の問題が普通に生きていても目に入る時代になってきてる。

 

人を良くするも悪くするも食べ物、食べ方にあると言っても過言ではないようで、実際人を良くすると書いて『食』というのも業界では当たり前の認識でもあるみたいです。

 

断食の効果

 

「断食」の効果はざっと言うと、

 

  • 腸内環境を整える
  • 内臓、各器官を休ませる

 

です。

 

その結果こんな効果が期待できる。

花粉症やアトピー

腸内環境が整うことで免疫機能が改善する。

肩こりや腰痛

胃腸に集中していた血液が筋肉へ流れ、コリが改善する。

冷え性やむくみ

ミトコンドリアが活性化して腎臓が元気になり、代謝ホルモンが活発になる。

生理不順やPMS

腸内細菌・自律神経が整い、ホルモンバランスが正常化する。

不眠症

腸内環境が整うことで睡眠ホルモンの分泌が高まる。

便秘や下痢

腸内環境が改善することで、腸内細菌の働きが活発化する。

 

 

食べないだけでこんなにも色々効果があるのかなんて、人間の身体って一体……

 

腸は第二の脳?

 

僕はどちらかと言えば腸内環境を整えて色々改善したいと思っていて、それはと言うと「腸は第二の脳」と呼ばれているからなんですよね。

 

これも随分前に知って、そこから自然食や発酵食品の凄さとか微生物とかの存在を知って一時期はストイックに意識してたんですけど、徐々に……ね。

 

 

腸の働き其の一 「脳内物質が実は腸内で作られている」

腸内に存在している細菌は、体の中にあるドーパミンの50%、セロトニンに至っては90%を生成していると言われている。

ドーパミンは快楽を与える物質で、セロトニンは安心感につながる物質と言われています。おいしいものを食べると幸せな気持ちになるのは、こういった作用が関係しているとか。

 

ふむ、となると腸が良くなれば幸せを感じやすくなって、不安になりにくくなると言うことか!今の「みや」にぴったりである。

 

 

腸の働き其の二 「腸の調子と心の調子はリンクしている」

 心の状態にも、腸は大きく関係する。

ある特定の腸内細菌が生育しないようにしたマウスは、自閉症と似た症状が発現したそうです。さらに調べてみると、セロトニンや、学習記憶に関わるタンパク質の量が減っていることがわかったとも。

そこで、改めて腸内細菌を与えたところ、こうした症状が改善。やはり、腸には大きな影響力があるように思えます。

 

其の一で精神に影響する脳内物質が腸で作られたりするくらいだから、心との繋がりがあってもおかしくない。

 

 

腸の働き其の三 「腸内細菌が学習能力や記憶力アップにも?」

ほかの研究では、腸内に生息するある細菌をネズミに与えたところ、ストレスのレベルが低下し、学習能力と記憶力が向上したそうです。

しかも、腸からの神経をカットすると、これらの効果は失われたとか。

 

 

腸(超)すげーや!

 

 

その他にも自律神経や副交感神経など、体の様々な部分と密接に関わっているのが「腸」という器官なのである。

 

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断食で腸に溜まった老廃物を出す。

 

ちょいと小難しく、堅苦しくなるけど。

老廃物や毒素の排泄

「便を介して老廃物を排泄する」という重要な役割を担っているのが大腸です。食べ物が消化・吸収される過程では、たくさんの老廃物が発生します。消化管の一番下に位置する大腸には、消化しきれなかった食べ物のカスとともに腐敗菌なども集まってきます。大腸は、それら老廃物の処理を行っている。
 
腸が正常に働かないと食べ物の残りカスや老廃物が大腸内に留まり、便秘になります。体内に不要な老廃物や毒素を抱え込むことになってしまうため、肥満や肌荒れなどを誘発する恐れもあります。腸活を行うことで、腸の働きがよくなるため、排泄機能を高める効果が期待できる。

 

要は日々の食事で溜まったものが、出し切れてないことによって腸内環境及び健康や体調にも影響してくるよ、ってことです。

 

 

そしてそう言った腸内で溜まったままのを宿便って言います。

 

宿便とは

ドス黒い便、砂のような便、ワカメのような便など、形や色は様々。とある先生は、これを「小腸の粘膜や絨毛にこびりついている、古い組織や汚れが剥がれ落ちたもの」と説明しているのだとか。通常の便も、半分以上は腸内細菌の死骸と腸壁が剥がれたものだといわれているので、便は食べ物のカスだけとは限らない。

 

これを綺麗さっぱり出し切ると、感覚や頭の回転など、全く違った世界に感じることが出来るそうなんですよね。

 

基本的にどんな人もこの宿便が腸内にあって、人によっては三キロとかこびり付いているらしいです。

 

 

うへぇ、そんなのが体の中に……

 

出せたらめっちゃ気持ちいいに違いない!!!!

 

ってな訳で断食、やってる訳です。

すでに軽くフラフラして、昨日買ったチュッパチャップスが目の毒になっている。

本当は事前に何日か前から準備するみたいだけど、思い立ったが吉日。

 

どーなることやら。

 

 

「みや」 

 

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世界一ふざけた断食宣言(前置き長い)

よし、断食しよう。

 

どうも、先日誕生日を迎えて世の中のアラサーの輪に足を突っ込んだ「みや」です。

二日程肉体労働をして、身体よりもつまらなさに心をやられ、ダウナーな気分になって早二日。

 

割とくっらい気分で今この記事を書いておりますですよ、はい。

結構ダラダラ書くつもりなので、物好きか人の良い優しい人以外は適当に流してくださいな。

ちゃんと冒頭の言葉には辿り着くことだけはお約束しておきましょう。

 

 

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かつて思った「死んだような目をした大人」

 

ちゃっかり見出しとかする「みや」でした。

高校生の時だか、登校中死んだような目をして勤務先に向かうのであろう大人を見て「ああはなりたく無い」と割と心の底から思っていたけど、今の自分どうなんだろーなーっと。

 

基本的に誰もがそうなんだろうけど、僕ってやつはやる気や気力が人一倍「目」に出るタイプで、よく兄弟からやる気のない目とそうでない時の目の違いが激しいと言われてました。

 

んで、人間二十年以上も生きれば自分のことはある程度理解出来るので、自分で今目が死んでいるのかどうかくらいわかる。

 

 

目に力が入らない。

きっと道ゆく高校生や大学生くらいの年代の子らが僕を見たら、かつての僕のように「ああはなりたくない」と思うに違いない。

 

それとも、チビで威厳も風格もないからそこまで歳いってるとは思われてないかもしれない。どちらにせよ「ふむ、良い目をしておる」と精悍な老人とかに頷かれるようなことはならない目をしているのは確かだ。

 

そんな目をして迎えた誕生日。

父と母が軽く祝ってくれて、お母さんがお母さんが前々から食べたかった桃のケーキを買ってきてくれて、慎ましやかに終わりました。

僕の誕生日、良い仕事した。

 

 

そして訪れるSNSでのお祝いメッセージ。

 

誕生日が訪れるまで、身内を除いて誰にもお祝いメッセージをあえてしないということをして見た。

それまでSNSに通知される「今日〇〇さんの誕生日です」で知らされる知人達の誕生日に対して一切反応しなかった。

 

 

まぁ、ぶっちゃけ大して「おめでとう」とも思ってないのに言うのは自分の中で嘘になるから、あえて、とかでもない。

あれって「おめでとう」とかの一言だけの人は基本的に関係性薄くて言葉だけの「おめでとう」にしか見えないのは僕だけなのだろうか?

僕も大した繋がりでない人に送ってた時は一言で終わってた。

 

それなりに付き合いがあれば何かしらの言葉を自然と添えるよなぁ。

そんなカタチだけの「おめでとう」してる人、いるんじゃない?

わかるよね、自分がされると。

 

 

んで、自分がしないもんだから、それまでより格段に数が減った。

僕が送らなかったから、だけが全てじゃないにしろ、減ったのは確かで、これってつまり与えなければ与えられないと言うこととも言える。

 

そうでない部分で祝ってくれた人も居たけれど、そうでなければ(僕が祝わなければ)祝おうとまでは思わないと言う人も居る訳だ。

だからと言って、その人たちが嫌いーとか悪いーとかは別に思う訳でもない。

 

関係なく送ってくれた人が特別良い人という訳でもない。

 

 

行動や関係性が変われば変わることはある。

と、いうよりはこれは僕が望んだ結果でもある。

 

 

適当な「おめでとう」をされるくらいならされない方がマシ。

という僕の望みが反映されたのだ。

 

ふむふむ、なんだか寂しい雰囲気になってきたけど、でもこれって裏を返せば結構面白い状況になって居る。

 

 

求めたものが叶いやすくなってる。

 

スピリチュアルな世界だと人ってやつは「見たい世界しか見ない」ってな考え方や捉え方がある。つまり、今目の前に起こっている現実は自分が望んだ世界と言えると。

 

認識がある人からしたら「今更だよね」って思うだろうし、そういったのに触れたことのない人からしたら「何を馬鹿な」ってなると思う。

 

「何を馬鹿な」視点で言えば、実際僕は仕事したいのに出来なかったり、ブログももっと多くの人に見られたいのにそこまでじゃないし、可愛い子とは付き合えないし、これが見たい世界ならどんだけのマゾなのかって話である。

 

 

でも、日々疲れてたり、焦りや不安の中だとなかなか良い世界のチャンネルに電波を飛ばせないもので、そのうち画面が砂嵐なことに慣れて、そんなことも考えなくなる。

 

 

とかさ、色々書いてる僕が実際出来てない訳だよ。

わかっているなら、やりゃー良いじゃん。

ってなるよね。

ブログで散々意識や視点だ書いている本人がこの様な訳ですよ。

 

 

説得力ねぇな!

そういうのを知ってるだけの奴じゃん!

頭でっかちと同じじゃん!

 

 

結局働きたくない言い訳をしてるだけなんじゃねぇの?って自分で自分に言いたくなったわ!かぁっ!

 

いやでも、単純な割に難しいんだよね、この辺の意識の部分って。

だって簡単ならもっと色んな人が幸せなり楽になってるはずなんだよ。

 

けど、実際そういった領域は確かにあるのは間違いない訳で。

 

 

自分の中の価値観や植え付けられた常識や癖みたいなんが邪魔してくるんだよね。

 

でも、確実にしなくて良いこと、体験しなくて良いことはしなくなっている感覚はあるんだよ。

 

 

例えば肉体労働したって書いたけど、前までだったらどんな仕事をやっても「あぁ、今日が一番大変な時のパターンだね。今日を超えられたらもう大抵大丈夫だよ」っていうハードスタートが基本だった訳なんだけど、直近から数えてここ数回の仕事は「あ、こりゃ当たりの日だね、ラッキーだったね」ってシフトしてる。

 

「あーキツイ現場は嫌だなぁ」っていうのが叶っている。

 

けど、楽でもつまらなかったら心が疲れる今の僕だから、やはりどんな職場なのか、とかどんな仕事なのかが重要な段階になっているみたい。

なので、まだ自分が活きる仕事場というのは叶ってはいない。

その途中であると言える。

 

 

で、SNSの「おめでとう」である種狙った通りの現実がそのまま来たので、ひっくいテンションではあったものの「あーなんだかんだ望み通りじゃんー」となって、本来の逆位置的な現実ではあるけど体感した訳だ。

 

 

そして、逆に「おめでとうが欲しければそれなりの行動(それまでの自分がしてた)をしていれば、もっと言って貰えてた」ってことがわかり、つまり「求めればそれが叶う」というのも結果的にわかったのである。

 

これを、無意識なのか意識するかで大分違うと思う。

 

 

ダウナーになりながらも、前向きな光明を見つけた「みや」なのだった。

 

 

余計なこと気にせず求めまくってみることに

 

目下求めるものは「イキイキ出来る仕事」である。

けど、これまで不安とか焦りから色々探して、結果的にダメになったり見つからずで苦しいだけだったので、

 

 

仕事してない自分を許して気にしないことにしてみる

 

 

どっかからかそんな仕事が舞い込んでくる、話が来たり、たまたま見かけて直感で応募するとか、そんなことに委ねてみることにした新生28歳

 

 

うひゃー社会的にはあかん奴だね(笑)

 

なんならこんな状況なのに彼女とか出来ちゃってさ、でもこんな状況で付き合ってくれるようないい意味で頭のねじが飛んでる人なら、お金とか肩書きではない部分で僕を見てくれるので、心も許せるかもしれない。

 

あ、でも将来的にはちゃんと稼ぐって信じて貰ってたりする訳ですよ。

僕もこのままじゃあつまらんので、稼ぎますよ。

 

 

っと今のままじゃあただのイタイ奴な訳ですが、どうっすかみなさん。これで仕事が見つかって、そんな素敵な感じの彼女にも出会えたりしたら、面白くないっすか?

 

まーこれでコケたら「でしょうね笑」「そんな甘くないわ笑」とか笑ってくれちゃって結構っす。

 

 

もう訳わかんねー何かに頼ることにしました。

本気でその辺り、気にしなくなって毎日過ごしたら謎のじいちゃんに会うとかトンデモ展開とかをお届けできたら、僕も楽しい。見てくれる人びっくり。

 

 

なので、全力でニートしてみる。

 

けど、求めはする。

幸い親は優しいお方。恵まれております。

 

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そして断食へ

 

ってな訳で断食します。(なんで!?)

ちなみにこれを書いている前と最中はマック食って駄菓子のビックチョコバーとか食ってました。コーヒー飲んで、チュッパチャプス舐めてこれ書いてます。

 

これ程説得力もカケラもない断食宣言もなかなかないでしょう。

 

明日から本気出す」の体現です。

 

どーせなら一度やってみたかった断食をやっちまおうとも思った訳です。

暇だし。

時間、有効活用しないとだし。

 

毎日ブログにも書きますよ!

 

色々舐めてますね、僕。

変なじーさんとかに遭遇する為の散歩とかもしてみようかな。

 

何日やるかは決めてませんが、決めたらブログに書きます。1日とか書いたら罵ってやってください。

とりあえず明日七月二十三日より開始です。

 

もう自分の生き様をエンターテイメントとしてお送りするしかねぇや。

見えてろ全国のクズぶってる奴ら!人生舐めてかかるかんな!

 

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本当はもっとふざけたりしたい「みや」なのでした。

 

 

こんなアホな僕の動向が気になるイカしたセンスの方はどうぞ登録やコメントなんぞもよろしくお願いします。 

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ピンチのようで実はピンチじゃ無いかもしれないってことを伝えてくれる画像

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そのピンチは
実はピンチじゃない
 
 
 
ピンチチャンスとよく言われますよね。
 
 
 
これはその物事に対しての見方だったり、視点を変えると一見ピンチに思える状況でも、場合によってはチャンスに成り得るということなんだと思います。
 
 
 
この画像はそれを言っていると感じたので、この言葉を添えてみました。
 

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写真のおじさんは今危機的状況に見えるか

 
貴方には今この写真のおじさんはどのように写っていますか?
一見するとおじさんが崖から今にも落ちそうに見えます。
 
 
まさに窮地!
おじさん大ピンチです。
 
 
 
映画なんかにあるようなシーンですよね。
 手に汗握る展開。
 
 
可能なら今すぐ手を引いて助けたくなってしまうような状況。
 
 
 
 
ところがコレ、実はトリック写真で、実際は石の床に横になっているところなんです。
 
 
つまり、実際はピンチでもなんでもないただ寝っ転がっているだけなんです。
 
 
 
画像をひっくり返して見てみるとーー
 
 
 
このおじさんの苦しそうな演技、見事です。
けど、これがトリック写真と言われなかったらピンチの写真でしかない。知らなかったらきっと「絶体絶命でも諦めない方がいい五つの理由」とかのサムネイルになっているでしょう。
 
 
こんな具合に視点を変えてみると、今ピンチと思っていることがピンチでないように思えるかもしれません。
 
周りからしたらピンチかもしれないけれど、貴方だったらピンチでないのかもしれないし、貴方がピンチだヤバい!って思っていることでも他の誰かからしたら。
 
 
寝っ転がっているのと同じようなもの、かもしれません。
 
 
何事も捉え方次第なので、肩の力を抜いて今一度そのピンチを見直してみるのもいいかもです。
 
また、自分ではヤバいと感じているのなら、誰か信頼できる人に聞いて貰ったりするのもいいかもしれません。
 
人の意見は一番わかりやすい、自分とは違う視点です。
 
 
ピンチでなくても、視点を変えて見たり考えてみるのは思い掛けない発見があったりするので、オススメです。
 
 
これって色々応用出来たりして、ピンチ以外にも「嫌だな」って感じていることも考え方一つでそうでもないかも、くらいには持っていけたりします。
 
 
例えば自分的に歳取ってきたな、って思っていても、十以上上の人からは「まだ〇〇歳?若いねぇなんでも出来るね」とか言われたりしません?
 
 
その目上の方からしたら、そういう視点で見えるけど、その更に上の方からしたらそう言ってきた人でさえ「若くていい、まだまだこれから」と言われてします。
 
 
視点の違いの面白さですね。
だからと言って、無理矢理「自分はまだマシな方」とか「もっと大変な人がいるんだから我慢しなきゃ」っていうことを考える必要は無いと思います。
 
 
「みや」

 

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三日月も満月も同じ『月』良い時も悪い時も同じ『人』

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月欠ける
己が足りぬと
憂うことなし
 
 
 
はい、なんか古文みたいな感じになりましたね(笑)
こういう言い回し一つで昔の歌人が詠んだ句のように見えてしまうのだから、日本語って不思議。
 
 
昔の人はこういうカッコイイ感じで日々話していたから、武士道とか忠義とかっていう意識が生まれたのだろうかと、ふと思う「みや」です。
 
 
まぁ、訳すと。
 
 

月だって欠けるんだから、自分の力が足りないって心配したり不安に思うことはないよ」

 
 
ってことです。
あくまで「みや」の言葉で書いているだけなので、悪しからず。
 
 
月って満月から徐々に欠けていって、再び満月……まんまるになりますよね。
 
 
 
月にだって調子の波があるんです。
 
 
 
実際は自転やら公転やらが関わってそう見えるだけで、調子も何もあったものではないんですけど、月はいつ見たって同じ形をしていない。
 
 
じゃあ、「実際欠けてる訳じゃないから月と自分を同じには見られないよ!」
 
 
と思われる方もいらっしゃるでしょう。
満月の満ち欠けは見え方だけであって、本当に欠けたりしてる訳じゃないと。
 
 
 
そうですね、見え方の問題なんですよね。
ということは自分が欠けている、足りてないというのも見方次第で違ってくるということですよね。
 
 
 
人間は完璧ではありませんので、別に欠けて足りないなんてことはないんです。
 
 
頭が良くなくたって、格好が良くなくたって、自分の持ち味を活かして面白おかしく暮らしている人だっている。
 
 

向き合い方ひとつで次第で人は「満月」にも「三日月」にも見える。

 
 
言ってしまえば、満月の時も三日月の時も同じ月であることは変わらなくて、それは人間にも同じことが言えますよね。
 
 
調子が悪かったり、機嫌が悪かったり、失敗したり怒られたり、傷付いて凹んでいる時だって自分は自分です。
 
 
最近の記事は自分は自分ということを色んな視点で書いている気がします。
 
 
この「画像からメッセージを読み取って書く」時って、基本その時の自分から出るものをそのまま書いている訳なんですが、今は自分という存在を確かめている段階だったりするのかもしれません。
 
 
また、自分は自分でいいんだよ、っとセルフに問い掛けているのかもしれません。
 
 
皆さんは「自分は自分でいい」と揺るがない所で言えますか?
僕はもう少しな気がします。
わかってはいるけど、そこに対しての自信がまだ培われてないって段階。
 

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正確には「三日月」の時の自分を受け入れきれていないと言ったところでしょうか。感覚的にそれを理解や観測出来ているものの、実感や体感レベルでは捉えきれていない。

 

 

 

けど、ついつい「満月」である自分を求めてしまいますよね。

そりゃあ僕だってそう思います。

調子が悪いよりは良い方がいい。

 

 

でも実際はどっちも同じなら「満月」だろうが「三日月」だろうが気にする必要なんて最初から無いのかな、って。

ちなみに、表現として「三日月」が欠けてると書いているだけで、「三日月」自体の否定とかしているつもりでは無いので、三日月好きの人はどうかご勘弁を。

 

 

人間、いい時だけが本当の自分だとしたら、疲れちゃいますよね。

いつも明るい元気な 人がたまたまその日は元気無くたって、その人であることは変わりないのだから。

 

 

「みや」

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自分が無いと感じている人に届けたい一つのこと 「自分たれ」 

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姿見えずとも

その形が

きみを物語る

 

 

 

月を背景に『彼』のシルエットが写し出されている画像です。

今回は詩的な雰囲気の画像メッセージ。

 

 

『彼』が何者なのか?『彼』を知る人なら言わなくても、このシルエットだけでわかってしまう。

 

 

こういったように、直接その姿を見なくてもその人だとわかることがある。

 

 

 

  • この作風はあの人だ。
  • このプレースタイルは彼だ。
  • この話し方、声はあの人だ。
  • この字はあの人だ。
  • この癖はあの人しかいない。

 

 

などなど、これらを総じて個性と呼びます。

または持ち味ともいいます。

 

 

 

誰しもが持っていて、似通うことはあっても決して同じになることのないこと。

 

 

 

そして、これらは長い時間をかけて自分の中に形作られていくものです。

 

 

 

癖なんかは普段の生活の中で出来ていくものですし、作風だとかプレースタイルなんかもそれに打ち込んできた時間によって脈付いてくるもの。

また、参考にした人や物。教わった人にも左右されてくる。

 

 

なので、一朝一夕には身につくものではない。

言い方を変えればその人の「人生」とも言えるのだから。

 

 

それも、他人にわかるくらいのものとなるとそう簡単にはいかないでしょう。

画像の『彼』 にしても、個体の違いまでは判別は難しいでしょうし、それこそ特別な形をしてないとシルエットだけでは本当の意味で『彼」とはわからないかもしれません。

 

 

しかし、何かを始めた瞬間に僕ら人間には独自性は生まれます

 

 

模倣から始めたとしても、やがてそれは自分のものになっていき、自分独自のものに成り代わっていく。

 

 

赤ちゃんが親の言葉や動きを真似て覚えていくのと同じことです。

同じ親から生まれた兄弟ですら、基本的に違った価値観、違った生き方を選ぶ。そこに似通った部分こそあれ、全く同じであることはまず無い。

 

 

そして、やがて一人の人格を持っていくように、一人の人間として歩んで行くように。

 

 

僕らの生き方や考え方は独立し、世界を作り上げていっているのです。

同じなんて絶対にあり得ない。

 

 

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だからきっと、自分が無いとかっていうのは実際には無くて。
どんな名俳優だって他の人の人生を演じることは出来ても、歩むことが出来ないのと同じように、自分は他の誰かなんかにはなれなくて。
 
自分で生きて行くしかない。
 
僕も度々「自分ってやつがわからない」とか「自分が無いんかな」とかうだうだ考えることが多かったです。けど、そうして落ち込んだところで、考えたところで結局納得出来る訳でも無いんですよね。
 
それに、自分の形なんて自分じゃあわからないところあるし。

 

www.tatamiyatanuki.com

 

昨日のブログでは特別になろうとする自分を投げ捨てたりしました。

こういうところで悩んで苦しんでたって、時間と精神力だけが失われて行くのを感じたので。

 

 

www.tatamiyatanuki.com

 

 

もうどんな段階で、どんな自分だろうと「自分であるということ」と「自分の形をした何か」であることは決して変わらない。

 

 

どんな形で見られていようが、実際の形がどんなのか自分では確認しづらいけど、時には誰かに見て貰う必要はあるのかもしれない。けど、自分の形は誰かには変えられないというのは忘れたく無い。

 

 

誰かから見た自分の形だけを見るというのは、自分の形を誰かに決めさせているようなもので、最終的には自分で自分を認めてあげないといけない。

 

自分の形は「コレなんだ」って。

 

 

どこまで行っても自分は自分だし。

他は他。

プロ野球選手の子供時代だって、彼は彼だし。

引退後だろうが彼は彼。

自分は自分。 

 

 

自分たれ。

 

 

「みや」

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他人に答えを見出しても結局は自分と違うということを知るだけ

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大人はいう
こたえは自分の中にあると
 
 
 
今回は過去の自分が書いた言葉が悔しいことに、的を得ていて、リライトせずにそのまま載せてみようかと思います。
そんなこと書ける自分であったはずなのに、そんなことを実践し切れていないところを見ると当時の僕はこの画像から自分には無いものを読み取って書いていたのかもしれません。
 
以下、過去の自分の引用
 
 
じゃあ、こたえってなんなのだろう?
 
 
正しいのがこたえ?
 
間違えないのがこたえ?
 
失敗しないのがこたえ?
 
出すのがこたえ?
 
決めるのがこたえ?
 
 
 
自分がやりたいのが……こたえ?
 
 
 
そもそも、自分は大人なのだろうか、子供なのだろうか。
 
 
ここで言う大人とは、自分にとって誰のことなのか。
 
 
 
きっと、そのこたえも自分の中にある
 
 
 
けどですね、そもそも答えなんて出さなくていいんですよね。
 
 
 
正確には、答えを出そうとしなくていいんです。
 
 
 
人生は決断と選択の連続です。
それは間違いありませんが、答えは言ってしまえば結果です。
 
 
つまり、後になって初めて気付くものと言えます。
 
 
やる前から結果のことを考えても仕方ありません。ビジネスでは先を見通すのが大事?
 
 
やる前から他人の答え(結果)で判断してどうするんです?
 
 
 
参考にするのは勿論大事ですが、それは貴方ではない人がやった結果なので同じ結果にはなりません。
 
 
大人や親が言うことは正しいことはあるけれど、絶対ではありませんよね。
 
こたえは自分の中にあって、自分で出すものなんです。

 

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ぐはっ(見えない吐血)
 
 
こんなこと書けている過去があるのに、どうしてそれが出来ていないのだ僕。
結構鋭いことを書いています。我ながら、なかなかやりますね。
 
 
ちょっと芝居臭い感じの言い回しではあるものの、言っていることは結構真っ当で、今の僕に結構当て嵌まる事がある。
 
 
今かつてない程迷走していて、答えというものを欲している状態です。
 
 
  • 自分ができること
  • 自分にしかできないこと
  • 自分だからできること
  • 今だからできること
  • 今しかできないこと

 

 

何が出来て、何をしたら自分という存在が活かされるのか。

 

 

そんなことばかり考えています。

 

それを自分ではない誰かの出した答え、あるいは結果という観点で見て苦しむ。

そんなことしても何か変わる訳でもないのに

 

 

月並みなことではありますが、自分の答えなんてのは自分の中にしかないし、他人を見ることでそれが浮き彫りになることはあっても、自分の答えが他人と一緒であるはずがない。

 

自分と近い答えなら他人にあるかもしれないですけどね。

 

 

ちなみに僕はそう言った他人の存在は居ません。

現時点では自分に近しい人には出会えてないんですよね。

なので、他人の中に答えを探したことはないんですけど、他人の結果から自分というものを見たり判断して苦しんでたりはしてます。

 

 

 

昨日の夜も「自分に何かあるなら、やるべきことや使命とか天命とかあるなら教えてくれ、それがないならいっそ殺してくれ」と天だか自分の心だかわからないところに叫びました。はい、危ないやつですね。

 

ちょっと前にそういうのを知れる様なセッションを受けたんですけど、だからと言って現状が激変する訳でもなく、心から理解出来たわけでもない。

 

 

なので、いっそ開き直って。

 

 

「あー今じゃねぇんだろうなー」(脱力)

 

っと悟って見た。

 

答えを、結果を求めるのは今じゃない。

 

周りの同年代とか、知り合いや兄弟とか自分とは違う世界の波に乗っていようが、気にしたってしょーがない。

 

 

自分が活きるのは今じゃない。

諦めの境地に見えて、内心ではすげー前向きだったりする。

 

 

もう今に悩むのは飽きた。

どうせ一年後とか今の悩みなんて悩んでないだろうし。

 

 

予期しないハプニングや悪い出来事が勝手にやってくる様に、

ラッキーやいい波や出来事っていうのも勝手にやってくる。

 

 

ただ、日々模索してたりアンテナは張り続けて意識的待機はしてたい。

自分が大した奴じゃなかったら、別段特別なことは起こらないだけだし。

 

そうなったら相応の幸せがその時にあればそれでいいや。

 

自分に出来ることとか躍起なって探しても、必要とされるなら勝手にそういう流れになんだろ(脱力)

 

 

という吐露でした。

これが今のところの自分の答えってやつ。

だけど、明日にはどうなっているかわからないし、これが自分にとって定まった事じゃなければまた迷走して、また自分なりに答え出していくのだと思う。

 

 

「みや」

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