見てきた世界、見方が違う人間、他人。
見方も見え方も
違うから楽しめる
物事にしても、景色にしても、見方は人それぞれです。
小さな子供が見る景色と大きな大人が見る景色は例え、同じ場所だとしても、全く違うでしょう。
となると、見え方もそれだけあるということで、その数だけ楽しみ方があるということになりますよね。
自分にとっての見方と見え方が他の人にとっては面白い。そんなことだって平気であり得るのがこの世界なんだと思います。その逆もまた然りです。
どんなにヒットしている作品でも、人によって感想や受け取るメッセージなんかも違うのはやっぱり他人と自分は同じ人間ではないからなんだと思います。
けど、今言ったのと違う意味で同じ人間ではあるので、共感や似た感覚の人は少なからず居たりするのもまた事実です。
ということは、今見えている、感じているこの世界は自分だけのものとも言えそうですよね。
自分だけのものでありつつ、共有している世界なんです。
この共有という部分があるからこそ人は繋がれたり、また交われないという感覚や実感を感じるのだと思ったりする訳です。
「みや」も割とよく感じます。
共有できるからこそ、共有出来ないことに苦しんだり、疎外感を感じたりする。
ありますよねー。
でも、それで良いんだと思います。
何故なら他人とは自分の知らない世界を知っている存在でもあるんですから。
自分が自分だけの世界を持っているように、他人もまた自分だけの世界や感覚を持っている。
言い方を変えると「歩んできた人生」を持っていると言ってもいいかもですね。
見てきた世界、見方が違う人間、他人。
そんな他人が居てくれるからこそ、自分という存在を明確に感じれるのだと思います。
でも、だからこそ他人との違いや差もまた感じてしまうんですよね、人間って(笑)
それらを感じた時にどうアプローチするのかは人それぞれだと思います。
落ち込むこともあるでしょう。
面白いと捉える人も居るでしょう。
特に気にしない人も居るでしょう。
別にどれだって構う必要は特にない。
違かったら違かったで、いずれ「共有」されてわかる時が来たり、断片でも知れる、触れられる時が来るのが今の時代なんだと思います。
共有出来ないが共有出来るように、人間いっぱい居ますからね。
そのうち何分の一の人と巡り会えて、共有出来たらいいんじゃないかなーなんて、書きながら思う「みや」です。
なんかこんなことを書いていると共有至上主義みたいになってますが、共有だけが全てではない部分も確かにあります。
冒頭に書いたように、見え方や見方が違うから楽しめるのが人生です。
「そんな見方あんの!?」みたいな、ある種理解の出来ない見え方もそれはそれで楽しい、面白かったりしますよね。
要は何だっていい。
何でもあり。
人生にルールやレシピなんてもはないんですもの。
「みや」