自分が無いと感じている人に届けたい一つのこと 「自分たれ」
姿見えずとも
その形が
きみを物語る
月を背景に『彼』のシルエットが写し出されている画像です。
今回は詩的な雰囲気の画像メッセージ。
『彼』が何者なのか?『彼』を知る人なら言わなくても、このシルエットだけでわかってしまう。
- この作風はあの人だ。
- このプレースタイルは彼だ。
- この話し方、声はあの人だ。
- この字はあの人だ。
- この癖はあの人しかいない。
などなど、これらを総じて個性と呼びます。
または持ち味ともいいます。
誰しもが持っていて、似通うことはあっても決して同じになることのないこと。
そして、これらは長い時間をかけて自分の中に形作られていくものです。
癖なんかは普段の生活の中で出来ていくものですし、作風だとかプレースタイルなんかもそれに打ち込んできた時間によって脈付いてくるもの。
また、参考にした人や物。教わった人にも左右されてくる。
なので、一朝一夕には身につくものではない。
言い方を変えればその人の「人生」とも言えるのだから。
それも、他人にわかるくらいのものとなるとそう簡単にはいかないでしょう。
画像の『彼』 にしても、個体の違いまでは判別は難しいでしょうし、それこそ特別な形をしてないとシルエットだけでは本当の意味で『彼」とはわからないかもしれません。
模倣から始めたとしても、やがてそれは自分のものになっていき、自分独自のものに成り代わっていく。
赤ちゃんが親の言葉や動きを真似て覚えていくのと同じことです。
同じ親から生まれた兄弟ですら、基本的に違った価値観、違った生き方を選ぶ。そこに似通った部分こそあれ、全く同じであることはまず無い。
そして、やがて一人の人格を持っていくように、一人の人間として歩んで行くように。
僕らの生き方や考え方は独立し、世界を作り上げていっているのです。
同じなんて絶対にあり得ない。
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昨日のブログでは特別になろうとする自分を投げ捨てたりしました。
こういうところで悩んで苦しんでたって、時間と精神力だけが失われて行くのを感じたので。
もうどんな段階で、どんな自分だろうと「自分であるということ」と「自分の形をした何か」であることは決して変わらない。
どんな形で見られていようが、実際の形がどんなのか自分では確認しづらいけど、時には誰かに見て貰う必要はあるのかもしれない。けど、自分の形は誰かには変えられないというのは忘れたく無い。
誰かから見た自分の形だけを見るというのは、自分の形を誰かに決めさせているようなもので、最終的には自分で自分を認めてあげないといけない。
どこまで行っても自分は自分だし。
他は他。
プロ野球選手の子供時代だって、彼は彼だし。
引退後だろうが彼は彼。
自分は自分。
自分たれ。
「みや」